ラストメモリー
本当はとっくに起きていたが、起き上がる気力が湧かなかったのだ。
だがそのことを告げる必要はない。
まばたきを繰り返して薄く開けたまぶたの隙間から、クリスチャンを眺めた。
「おはよう」
クリスチャンは唇の両端を同じように持ち上げ、上手に微笑んだ。
「おはようといっていい時間は、とっくに過ぎてしまったよ。お寝坊さん」
「じゃあ、これは病人の特権ね」
クリスチャンは永遠の言葉に触れず、「済ませたい用はあるか」とだけ尋ねた。
永遠は肩をすくめてぎこちなく起き上がった。
死を目前にして、なにもないふりをしても仕方ないと気づいたのだ。
自然とこうやって周りの人に、自分の死に対する心構えを促しているのかもしれない。
クリスチャンは永遠の腰に腕をまわし、寄りかかった永遠をほとんど抱えるように支えながら、バスルームまで付き添ってくれた。
「鍵は開けておいてくれ」
永遠が倒れることを心配しているのだとわかっていたから、ドアを閉じてプライバシーを確保することで我慢した。
いつだってクリスチャンは私のことを考えてくれている。嫌な顔ひとつせずのろのろ歩く永遠にあわせてくれる。それもこれも、抱いて運ばれるより、出来るだけ自分の足で歩きたいとわがままを言ったからだ。だが文句を言わず付き添ってくれるクリスチャンの姿を目にするたびに、おばあさんになった気分だと、不満に思う自分が心底嫌になるのも事実だった。
ため息をつきながら手を洗って顔を上げたとき、目にした鏡に愕然とした。
もともと美人ではなかったが、これはあんまりだ。
つやのない肌に落ち窪んだ目。ぱさついた髪がこけた頬にかかっている。
控えめなノックが響いた。
「音がしないが、だいじょうぶか?」
「ええ」
骨ばった手を顔の前に上げた。毎日見ていたから痩せこけていることに気づかなかったのだ。クリスチャンのことを考えていたおかげで、彼の目を通して自分の姿を見ることができた。
彼はよくこんな私から目を背けずにいられたものだ。持ち前の誠実さが、約束を反故にすることを許さなかったのだろう。
だが今の私は三ヶ月前とは似ても似つかない女だ。彼を過剰な負担から救わなくては。
声をかけるとすぐに鋼のような腕が腰にまわされた。
ベッドに落ち着くとクリスチャンは立ち去りがたい様子で、上掛けをならした。
「私と会った日がいつか覚えてる?」
ヴァンパイアは時間に縛られることがない。だから人間のようにスケジュールとにらめっこすることもないはずなのに、クリスチャンは時間に追われるサラリーマン以上に、きびきびと行動するようになっていた。
「女の得意な問いだな。間違えると今日一日、口を利いてくれないのか?」
永遠は流し目を送った。
「間違えるはずないわ。正しい答えに誘導するつもりだから」
クリスチャンは啓示を求めるように大げさに空を見上げ、考えるふりをした。
永遠がふりだとわかったのは、その人間くさい仕草を教えたのが自分だったからだ。
「九月二十五日」
はなから彼が間違えるとは思っていなかったから、軽く頷くだけにとどめた。
「明後日はクリスマスね…もういいわ」
今度はふりではなく、かすかに首をかしげ無意識にやっているようだ。しばらくして顔をしかめた。けっきょく神の導きは得られなかったらしい。
「すまないが、教えてもらえるか?」
ベッドにあったクリスチャンの手に視線を移した。
「私の取り分はもらったから。もういいのよ」
「君は、あのばかげた取引のことをいっているのか?」
頭の上から穏やかな声が降ってきた。
本当にあの時は、ばかげたことをいったものだ。
「わかってなかったの。あなたにとっては私の血を飲み干すとか、殺すとかどうでもいいってこと」
「そうだ」
素っ気ない返事を受けて、クリスチャンの顔を見上げた永遠は息をのんだ。
彼は激怒していた。
「終わりにしたいのか? わたしになにも感じなくしてほしいのか?」
永遠は機械的にかぶりを振った。
「なら、なぜわたしから離れようとする」
「不公平だと思ったから」
永遠は下唇をかんで言葉を捜した。
「私はあなたからいろんなものをもらった。目に見えるものも、そうじゃないのも」
胸元に下がった三日月のペンダントを弄んでいることには気づかなかった。
「あなたといると守られていると感じるし、幸せだなって思う。あなたといると心が豊かになるの。でも私はなにもあげられない。お返しをしたいけど、価値のあるものなんて持ってないから。だからせめて私がいなくなる前に、あなたを自由にしてあげる」
「望んで君のそばにいるとは思わないのか?」
永遠は嫌になるほどか細い腕を広げた。
「こんな私だってまだ目は見えるもの。あなたは義務感にとりつかれてるだけ」
「君はなんでも知っているようだから教えてくれないか。わたしが今、なにを思っているのか」
しばらく考えてから、永遠は首を振った。
「わたしの目には変わらずに美しく映る」
お世辞もここまで極めれば食べていける。
「決めたわ。お返しに眼鏡をプレゼントする」
クリスチャンがかすかに口角をあげた。手を伸ばし、永遠の目の下にできた隈を親指で優しく撫でた。
「これは君が必死に病と戦っている証だ。何かを守るために戦い、受けた戦士の傷跡は、美しくはあっても醜いはずがない」
彼は手を動かし、頬を包みこんだ。記憶に永遠を刻みつけるようにじっと目を覗きこんだ。
「君と暮らし始めてすぐに、取引のことなんて忘れた。わたしの求めるものも同じだった。同じ目的のもとで、そばにいた」
永遠は彼と同じひたむきさで見つめ返した。
「本当に、私はここにいていいの? 負担にだけはなりたくない。正直にいって」
「君がわたしのそばにいたいと思う以上に、君といたいよ、永遠」
永遠は涙がこぼれないように唇をかんで、感謝を震える笑みで表した。
クリスチャンは目にたまった涙に気づいて、視線を外した。
ヴァンパイアであっても男には変わりない。女の涙は苦手なのだろう。
「違う本を持ってこようか」
中世生まれなだけあって、ロマンティックな言葉をおくびもなく囁けるのに、なんて的外れな質問だろう。
一瞬にして涙が乾いた。
まあ、いい。クリスチャンが部屋を出て行ったら、少し横になろう。
彼はサイドボードから本を取り上げたが、永遠に視線を走らせて疲れを読み取るや、気が利くのかきかないのか強引に寝かしつけた。
「これはもう読み終わった?」
内容どころか、タイトルさえも記憶にない。
「ええ」
クリスチャンは再び顎の下に上掛けをたくし込んだ。
「じっとしていること。勝手にうろつきまわるな。いいな」
一人でトイレにすら行けないのに、目を放した隙に永遠が遊び歩いているようなことをいう。
彼がそばを離れるときの決まり文句だった。目を閉じて頬の内側をかみ、笑みをこらえる。
挑発されると幼い頃のいたずら好きな一面が外に出ようとする。
「わかってる。でも一人になったら…」
そこで目を開けてクリスチャンを見た。
少しの驚きに、やましさをほんの一滴。