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ラストメモリー

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 クリスチャンは人並みはずれたスピードで彼女のもとに跳ぶと、グラスが床に着く前につかみテーブルに置いた。
 ほっとしたのも束の間、彼女が胸に手を当てて喘いだ。
 クリスチャンは心配になり、肩をつかみ大きな声で言った。
 「大丈夫か?」
 「心臓が…」
 言い終える前にクリスチャンは彼女を抱き上げた。
 「胸が苦しいのだな。医者のところへ行こう」
 彼女は抵抗するように身をよじると、驚いたことに笑い出した。
 「お医者様は必要ないわ。私は『心臓が飛び出すかと思った』って言おうとしたのよ」


 クリスチャンはスプーンを口に運ぶ彼女に見とれていた。艶やかな黒髪が彼女の色白の顔に影を落としている。それが一層はかなげな美しさを添えていた。
 視線を落としたクリスチャンの前では、白い湯気をくねらせて、シチューが胃袋に収まるのを今か今かと待っている。
 彼女といると自分が間抜けになったような気持ちになる。まるで初めて恋をして、女の子にどう接したらいいのかわからない少年のようだ。
 心の中にある思いに気づいてクリスチャンは顔をしかめた。
 なんてことだ。彼女に心を許すまいと誓ったのに、たった一日で惹かれはじめている。
 クリスチャンの表情を誤解した彼女が、眉をひそめてスプーンを置いた。
 「ごめんなさい。その、あなたには血の方が―」
 彼女が髪を後ろに払うと、白い首がクリスチャンを誘った。
 「昨日も言ったが、君はヴァンパイアについて学ぶ必要がある。わたしはふつうのものも食べられる、確かに血の方が好ましいが。昨日、君の血を頂いたから当分はなくても平気だ」
  証明するために一口シチューをすする。
 クリスチャンの言葉に彼女の目は驚きに見開かれ、シチューに対する賞賛には輝いた。
 それからしばらくクリスチャンはヴァンパイアについて話して聞かせた。彼女が熱心に耳を傾ける様子は微笑ましく、クリスチャンの講義にも熱が入った。
 クリスチャンが二度おかわりをし、二人がシチューをきれいに平らげたころには、彼女はヴァンパイア本人を除けば誰よりも、ヴァンパイアについて詳しくなっていた。


 食器を片付け終えると手持ちぶさたになった。
 昨夜は彼の腕で眠ったというのに、二人きりでいるのが強く意識される。一人で暮らすのに慣れているせいだと自分に言い聞かせても、それは真実ではないと心は告げていた。
 強い視線に振り返ると彼は昨夜と同じソファで、同じようにくつろいでいた。
 あんな風に見つめるのをやめてくれればいいのに。
 永遠はほかにすることはないかと周りを見回したが、部屋は片付いている。そもそも物の少ない部屋は散らかりようがなかった。そわそわとすでに何度も拭いているテーブルを拭きなおす。
 「落ち着かないのだろう? 君はもう休むといい。わたしはしばらく出ているから」
 確かに落ち着かなかった。だが彼に出て行って欲しいとは思わない。
 「いいえ。そんな必要はないわ」
 彼は音も立てず優雅に立ち上がると言った。
 「少し必要なものがあるのでね」
 その言葉に永遠は慌てた。
 「血なら私から摂ればいいでしょう」
 彼はポケットに手を突っ込み、肩をすくめた。
 「血は足りている。住処へ行って予備のカーテンを取ってくるだけだ。君のバスタブはわたしには窮屈すぎるのでね」
 それでも永遠は食い下がった。両手を広げて部屋を示した。
 「カーテンならここにだってたくさんあるじゃない」
 「だが、遮光カーテンではない」
 彼は辛抱強く続けた。
 永遠は黙って彼を見つめた。くつろいだ様子で立っていても、彼はどこか人離れした雰囲気をまとっている。
 遮光カーテン。
 だから彼はバスタブで身を縮めて眠っていたのだ。まわりに窓のないバスタブならずる賢い太陽も彼に手出し出来ない。
 恥ずかしさに顔をうつむけ、小さな声で謝った。
 「ごめんなさい、うるさく言って。うんざりしたでしょうね」
 彼は永遠が「ヴァンパイアの笑み」と密かに呼んでいる、片方の口角だけを上げる歪んだ笑みを浮かべた。
 「いや、気にしなくていい。だがわたしが自惚れた男なら、君が嫉妬しているのではないかと思うところだ」
 彼の言葉にドキッとした。
 私は嫉妬していたの?
 彼のことをほとんど知りもしないのに。だが彼が自分以外の誰かから血を摂ると思うと…。
 これ以上考えたくなくて永遠は話を変えた。
 「そういえば住処って、どこに住んでるの?」
 そんな考えなどお見通しだというように彼の瞳が煌いた。
 「スコットランドだ」
 「スコットランド!」
 彼女の瞳が大きく見開かれた。
 「スコットランドってあのスコットランド? イギリスの上の方にある?」
 しどろもどろな彼女が愛らしく、スコットランドを知っていることが嬉しかった。クリスチャンにとってスコットランドは特別だった。
 「ああ、そのスコットランドだ」
 「だけど―しばらく外に出てくるだけだって言ったじゃない。私は一時間もかからない場所に住んでいるのだとばかり。いくらあなたが永遠の命を持っているからって、飛行機で何時間もかかる外出を、散歩か何かのように言うなんて。あなたは遠く離れた場所に行くことをいつもそんなふうに言うの?」
 人間には驚いたり緊張したときに、黙り込む者と口数が多くなる者がいる。
 どうやら彼女は後者らしい。
 「ああ、そうだ」
 簡素な返事を返されて次の言葉を紡ぎ出せず、口を開いたり閉じたりしている彼女の様子がおかしくて、クリスチャンはもうしばらくこのままにしておこうかとも思った。 だがかわいそうなので止めにした。
 「一緒に行きたいか?」
 「だけどパスポートがないわ」
 彼女は手で触れられそうなほどがっかりした雰囲気をまとっていた。
 欲しくてたまらない玩具が、ほんの少し金が足りなくて買えなかった子どものようだ。いや、彼に比べれば彼女は赤ん坊みたいなものだ。たったの十八年しか生きていないのだから。
 「パスポートは必要ない。空を飛んでいく」
 「空を飛ぶ? 確かにあなたはとても早く動けるとは聞いたけど、空を飛べるなんて言わなかったじゃない」
 「怖いのか?」
 「怖くなんかないわ!」
 返事が早すぎた。
 だからクリスチャンは安心させるために言わずもがななことを言った。
 「落としはしない。わたしがしっかりと君を抱いておくから」
 彼女はしばらく黙りこくっていたが、クリスチャンに近づくと手を差し伸べた。
 「私も連れて行って」
 クリスチャンは彼女に微笑みかけ、手の甲に唇を押し当てた後、その昔宮廷でしていた優雅なお辞儀をした。
 「仰せの通りに」


 「さあ着いたぞ」 
 数十分、いやほんの数分だったのかもしれない。彼に抱きしめられ足が地面から離れると、景色が飛ぶように流れていき永遠はすぐに目をぎゅっとつむった。その後はただひたすら彼の胸に顔を押し付け、力強い鼓動を聞いていた。ドクン、ドクン、ドクン…。繰り返される安定した鼓動を聞いていると心が落ち着くのだった。
 永遠は彼の声に恐る恐る目を開いた。
作品名:ラストメモリー 作家名:Lucia