ラストメモリー
「だが親は子どもをしつけるために手をあげることもあると気づくと、子の幻想は打ち砕かれる。ぶたれる痛みより、そっちの痛みの方が大きいから一度目はこたえるが、それ以降は慣れがあるし、いたずらの魅力を妨げるほどの罰ではなくなる」
ブリスは怯える犬の前を悠々と通り過ぎた。
「だが君に二度目はない。わたしが許しはしない」
永遠は腫れた頬に触れた。痛いだろうに、その手つきは感情を交えずじっくりと状況を検分する医者のそれだ。
「最初はびっくりしたけど、でも―」
適切な言葉が見つからないというように空に視線を彷徨わせた。
「嬉しかった」
結局、言葉に恵まれず、その言葉に落ち着いたようだ。
「嬉しい? 悲しいやつらいではなくてか? 腹立たしいや屈辱的はどうだ。殺してやりたいというのもあるぞ」
彼女は首を振った。
「あなたが薬を取ってきてくれた日、私は言ったわよね。望んでもいないのに壊れ物のように扱われるんだって。いつもどこか違うなって感じてたの。二人と私とは、やっぱり他人なんだって」
「ああ」
「だけど今日、叔父はやっと私が壊れたりしないって、気づいてくれたんだと思う」
彼女の叔父が怒りに我を忘れたのではなく、彼女の言うように思っていたのか、はなはだ疑問ではあったが頷いた。
本来ならば、今の永遠にこそ優しくしてやるべきなのだが。
「それで嬉しいと?」
「親が子どもを叱るのは何でだと思う?」
「子どものしていることが気に食わないからだろう」
永遠は笑った。
「違うわよ。愛してるから。自分がいなくなった後も、ちゃんと生きていてほしいから」
「つまり叱るのは愛しているからで、叱られないのはその逆だからだというのか?」
「まあそういうことね」
さっきのおかしそうな表情とうってかわり、彼女が目を細めてこちらを向いた。
「でも私が親になったら、子どもには絶対に手をあげない。だってすごく痛かったもの!」
部屋は野菜や肉が煮える、食欲をそそる温かな匂いに満ちていた。すでに野菜には火が通っている。あとはカレー粉を入れれば完成だ。
買い出しをかってでたクリスチャンが戻ってこなければ、今夜の夕食はポトフになりそうだが。
「ねえ、ブリスって兄弟はいるの?」
ブリスは眉を上げた。
「なんだよ、急に」
永遠は鍋をかき混ぜながら顔だけブリスの方を向いた。
「だってあなた、自分のことはなんにも言わないじゃない」
「どうでもいいだろ、俺のことなんて」
ブリスがキッチンテーブルに乗ったウサギの頭を気だるげにかいてやると、耳を寝かせ、気持ちよさそうに鼻を動かした。
「そんなことないわ。心配してる人がいるなら、電話した方がいいわ。長いこと会ってないんじゃない?」
「…いねぇよ」
永遠は火を止めて体ごとふりかえった。
「亡くなったの?」
「そんな話、聞きたくねぇって」
寂しそうな横顔。
強がっていても満たされない愛情を求めている、思いやり深いウェアウルフ。
「話して。力になりたいの」
肩がゆっくり上がって下がる。深呼吸しているのだろうか。
「家族はいない。母さんが死んでいなくなった」
「そう」
永遠はブリスの前の席に腰を下ろした。
親を亡くす気持ちは体験した者にしかわからないだろう。
どんな言葉をかけられても、心の穴はふさがらない。時がその記憶を薄めてくれるのを待つしかない。
永遠は黙ったままブリスが話すのを待った。
「なにも聞かないんだな。だから聞きたくねぇって言っただろ」
永遠はテーブルにあるブリスの手を握った。
「あなたは話したくなかった?」
ブリスはじっと繋がれた手を見つめた。
「永遠になら…話せる。聞きたいなら」
手にぎゅっと力を込める。
「ええ」
「俺、友達がいなかった。目が…変だから」
親指で永遠の手の甲をなでている。
変なんかじゃない。綺麗だと言いたくて口がむずむずした。
「いっつもほかのウェアウルフが遊んでんのを隠れて見てた。頭の中では俺は人気者だったんだ」
ブリスの口角が馬鹿にしたように上がった。だが目は悲しみに翳っている。
「ある日、ついに空想が現実になった。一緒に遊ぼうって向こうから誘ってくれたんだ。俺、嬉しくてたまらなかった。だからかくれんぼをするとき、俺に探す役をやらせてくれるなんて夢のようだと思ったんだ。隠れんのはその他大勢でも、鬼はたった一人、特別なんだから」
話の結末がわかって目に涙が滲んだ。
「日が沈んでも、俺は一人も見つけられなかった。けど、せっかく鬼をやらせてくれたんだ。見つけないわけにはいかなかった。母さんが迎えに来て、しぶしぶあきらめた」
グリーンとゴールドの瞳に悲しみを浮かべた幼いブリスの姿が頭に浮かんだ。
かわいそうに…。
「次の日、探さなくてもあいつらは俺んちに来たんだよ。最初から隠れてなんかなかったんだ。俺が必死になってんのを陰で楽しんだってわざわざ知らせに。母さんの前でだぜ、くそったれ」
一時、大きく息を吸って高ぶった感情をしずめている。
「俺はガキだったけど、負けん気だけは強かった。あいつらなんて友達になる価値ないって思うようになった。話し相手がほしけりゃ母さんがいたし、一人でだって楽しくやってやるって」
ウサギが悲しみの感情に呼応するように小さく身震いした。
―俺は気持ち悪いか?
ブリスが語りかけてきた言葉。きっと嫉妬したいじめっ子たちに、神々しいほどの美貌を罵倒されて生きてきたのだろう。
気にしてないと強がってはいても、心には今なお痛々しい傷が残っている。
「母さんが死んだあとは一人で生きてきた。幸いもう一人でもやってける歳だったしな」
永遠は目を閉じた。
ブリスはそう言うが、一人で楽に生きていけるほど成熟していたとは思えない。
人生はなんと残酷なのだろう。
話し相手もいないブリスが、暗闇にたたずんでいる姿が脳裏に浮かんでは消える。
だがブリスがふいににっこりした。
「永遠と会った日は、俺の旅立ちの日だったんだ。二十歳になったばっかだったけど、これからは自分の好きなとこに行って、好きに生きようって決めたんだ」
「出立早々、災難にあったの?」
邪魔をしないように久しく閉じていた口を開いた。
目は笑みを浮かべるブリスを見据えながらも、彼の生々しい脚の傷を思い出していた。
「ああ、確かにそう言えるな。俺じゃなくてあいつらにとってだけど」
彼は自分にしかわからない冗談か何かのようににやりと笑ったので、白く鋭い牙がのぞいた。
「母さんの墓に立ち寄ったんだ。感傷的だと思うだろ? もうそこにはいないのにさ。けどあのときは母さんに挨拶しとくべきだって気がして」
「そこでいじめっ子たちに会った?」
ブリスがおかしそうに口元をぴくりとさせた。
「永遠が言うとさ、なんか上手く言えねぇけど、おもちゃを取り合いになったガキのけんかみたいに聞こえる」
馬鹿にされたような気がして少しむっとした。
「それは―」
「いいんだよ。永遠は俺の気持ちを軽くしてくれる」
彼の目が優しい色を取り戻している。
よかった。
「続きを話して」