ラストメモリー
「ああ―それは犬か?」
叔父がブリスに目を留めて聞いたが、その口調には疑わしさがたっぷりと混ざりこんでいた。
「半分、狼なの」
今度は嘘ではないから気が咎めることもなかった。
「ここにいさせてもいいでしょう? 外は寒いから」
ここも温かくはないが、外にいることを考えればまだましだろう。それにブリスは毛皮を着込んでいるし。
「ああ、かまわんが」
「さあさあ、早く上がってコタツに入りなさい」
叔 母はそそくさといなくなった。きっと私たちをもてなす準備をしに行ったのだろう。
振り返ると、伏せをしたブリスは、だらりと舌を垂らして従順な犬を真似ていた。
だが目が合うと、いたずらっ子のように大きな口でニヤっとした。
昔よりもずっと居間は暖かかった。
心は目に見えないのに、どうして気持ちひとつでなにもかも違うのだろう。
「どうかしたか?」
敏感に永遠の感情の変化を感じ取ったクリスチャンが耳元で囁いた。
「いいえ。ただ、ありがとう」
彼は眉をひそめたが、叔父が近くにいるので追求されることはなかった。
クリスチャンと並んでコタツに入り、叔父と向かい合った。彼ははコタツという存在にまごつかなかったから、過去に入ったことがあるのだろう。叔母はキッチンにいたために、その間私たちは沈黙を守っていた。
耐え切れなくなった叔父が沈黙を破った。
「これはそういうことなのか? その、お前たちは―」
「あなた、野暮ですよ。いきなりそんなこと。さあ、入りましたよ」
叔母がお茶とお煎餅を持ってきた。叔父の隣に席を占め、クリスチャンにお茶を勧めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
クリスチャンがそう言うと、叔母は少しの間だけ言葉をなくした。
「外国の方よね? 完璧な日本語だわ。たくさん勉強されたんでしょ」
クリスチャンはヴァンパイアの笑みを浮かべた。
「ええ、まあ。時間だけはいくらでもありましたから」
世間話に業を煮やした叔父が、手を振って私たちの注意を集めた。
「永遠、誰なんだ?」
「彼はクリスチャン・ベルナールというの」
叔父は苛立たしそうに舌を鳴らした。
「ちがう。名前などどうでもいいんだ。ああ―」
クリスチャンの方に手を振って続ける。
「この人はなぜここにいるんだ?」
コタツの陰でクリスチャンが手を握ってきた。
『わたしから話す』
永遠も握り返し、わかったと伝えた。
「申し遅れましたことをお許しください。わたしは永遠と結婚する旨をお伝えに参りました」
叔母は胸に手を当て、叔父は眉を吊り上げた。
「なんて、まあ、永遠もそんな年になったのね。いいじゃないの、あなた。ベルナールさんは素敵な方よ」
「おまえ、何を馬鹿なことを―永遠はまだ十八なんだぞ。駄目に決まっているじゃないか。認めないぞ、永遠」
永遠は残念そうに頭を振った。
「認めてもらえないのは残念だけど、私たちは結婚するの。誰に何と言われようと」
「そんなことできるはずがない。おまえはまだ未成年だ、親の承諾なしには―」
今度はもう少し強く頭を振った。
「いいえ、私たちスコットランドに行くの。向こうでは結婚を誓い合えば認められる。誰の承諾もなしに。自分たちの意思だけで」
「学校はどうするんだ?」
「辞めたわ」
余命宣告された日に学校は辞めていた。通ったところで卒業できるわけでもなかったし、それにあの時は全てがどうでもよかった。
「―何だと!」
叔父の顔は赤黒く染まっていた。こんな風にいがみ合うためにきたわけではなかったのに。
コタツを回ってきた叔父に腕を掴まれ、乱暴に引っ張りあげられた。
衝撃を感じた。だが、痛みは感じなかった。頬に手を当てて、人事のようにあたりの動きを観察していた。クリスチャンは叔父の手が頬に触れると同時に立ち上がり、叔父を押しのけて私を抱きしめた。叔母は小さく悲鳴を上げてキッチンに走った。
クリスチャンが押さえていた手をそっと離させ、頬を調べているところに、叔母が濡らしたタオルを持ってきた。 クリスチャンが受け取ったタオルで冷やしてくれている間も、永遠はぼうっと、尻もちをついたままの叔父を見つめていた。
小さいころに、こんな叔父を見たことがあっただろうか。叔母がおしゃべりな分、その代わりというように寡黙だった叔父。感情をあらわにするのを見たことは、数えるほどしかない。
実際に体験しなければ、怒りに我を忘れた姿なんて想像も出来なかっただろう。
クリスチャンが叔母に帰ると言っているのが聞こえた。腰に回されたクリスチャンの腕に促され、玄関に向かう。 狭い廊下で先を行く叔母が心配そうに振り返った。
「永遠…結婚を急ぐのは、子どものためなの?」
打たれたのは頬なのに唇がしびれていた。
「いいえ。でも、私のためでもなかった」
「ごめんね」
永遠ははにかんだ笑みを浮かべていた。
クリスチャンは不首尾に終わった結婚の挨拶を心の中で反芻しながら、永遠の横を歩いていた。
彼女の謝罪は何を指したものだろう。喧嘩別れになってしまったことか、成果を得られず無駄足を踏ませてしまったと考えているのか。
「なぜ君が謝るんだ」
彼女はリードの先に目を落とした。
「叔父の、あなたに対する態度がひどかったから」
わたしに対する態度…。
なかば髪に隠された赤みの残る頬を、クリスチャンはじっくりと検分した。
ヒリヒリするだろうが痣にはならないだろう。
ゆっくりと息を吐き出してから言った。
「大したことではない、そうだろう?」
永遠は揺れる銀の尾を目で追っていた。リードを握ってはいるが引く必要はないために、二人の間で紐にはたるみができていた。家を出る前は不穏な雰囲気を察して、牙をむき出し唸っていたが、ブリスの機嫌も直ったようだ。
「そうね」
永遠は無意識に手に巻いたリードを親指でさすっていた。
また彼女の心に暗雲が立ちこめているのだろうか。
「私、手をあげられたことがなかったの」
唐突な告白に少々面食らった。永遠は悩みを心の中に留めておいて、一人のときに取り出しては、人知れず解決しようとするタイプだからだ。
永遠の太陽に温められた髪をそっと撫でてやると、子猫のようにすり寄ってきた。
「叱られたことも、ほとんどなかった―父さんや母さんが生きてた頃は別だけど。私、大人しい方じゃなかったから」
いたずらっぽく付け足された。その瞬間、永遠は年相応に見えた。
普段は彼女が十八才だということを忘れてしまう。痛みや孤独を同じ歳の者よりもよく知っている分、彼女には成熟した雰囲気があった。
「あなたもぶたれたことある?」
「ある。幼い子どもは親を万能の神のように見ているだろう? どんなときも自分を守り、慈しんでくれると」
前方に飼い主と散歩中のダックスフントが見えた。
「あなたもそう思ってた?」
彼は肩をすくめた。
「忘れた。もうずっと昔のことだ」
犬はブリスが近づいてくるのに気づいている。尻尾を足の間に垂らし、飼い主の後ろに隠れた。