ラストメモリー
目を逸らしてくれているのがありがたかった。その間に粉々になってしまった破片を組み合わせて、自分を取り戻そうとした。
永遠は屋根の上から黒い陰が、自分をじっと見守っていたことに気づかなかった。
アダムがそっとクリスチャンに頷くと、彼は屋敷の中に消えた。
「アダムさん、お聞きしたいことがあります」
鼻声ながら迷いのないしっかりとした口調で言えたことが嬉しかった。
『君がいなくなった後、君の記憶を抱えて生きてはいけない』という言葉が、ずっと引っかかっていたのだ。
アダムは赤く腫れた目でじっと見つめられ、居ずまいを正した。
冷たい風が通り過ぎる。
顔にかかった髪を耳にかけてアダムの回答を待った。
また風が吹き、永遠の髪を乱したが今度は気づきもしなかった。
「…そうですか。ひとつだけお願いがあります」
アダムは頷いた。
「あなたは娘のようなものだ。何でも言いなさい」
「私の心を読んで下さい」
アダムが言葉に詰まった。
「そんなことを言われたのは初めてだよ」
「そのときが来たら、クリスチャンに伝えて欲しいんです」
アダムには『そのとき』が何を指すのかわかっていた。
「だがクリスチャンならば…」
永遠は悲しい笑みを浮かべた。
「彼は、望んでいないんです。たくさんつらい思いをして、誰も信じることができないんだと思います」
「なんと。自分の息子ながら、まったく嘆かわしい」
アダムは自分の手を見下ろした。
「僕がヴァンパイアに変えてあげることも出来るんだよ」
「永遠の命なんていりません。アダムさんに命を貰えば、彼の信頼を得るチャンスを失ってしまう。クリスチャンと共に生きられないくらいなら、私は―彼と過ごす二ヶ月を選びます」
永遠が手を差し出すと、アダムは息子の愚かさを呪いながら手を取った。
永遠はクリスチャンと同じ金の瞳が光を放つのを、今度ははっきりと見つめていた。
愛するひとへの最期の想いを託す。
彼の思いに報いられないせめてもの償いになればいいと願いながら。
二日後、ジュリーの言葉通りブリスはすっかり元気を取り戻していた。
珍しく早起きしたブリスは、頬の痣も薄くなっていると嬉しそうに永遠の寝顔を見つめた。
早い時間にもかかわらず、クリスチャンはすでに部屋にいなかった。
ったく…。
ピクニックに行ってからというもの、クリスと永遠の間には、見えないながらもはっきりとした壁が出来てしまった。
大切なものにするように愛情をこめて、そっと永遠の頬に指を触れた。
腹が減った。もうしばらく起きそうにないし、何か食いもん貰ってくるか。
思い出すと胃がむかつくけど、永遠はココアが好きなようだから一緒に貰ってきてやろう。
ブリスは静かに部屋を出た。
だがブリスの予想とは裏腹に、一人になった永遠はすぐに目を覚ました。
何か―変。
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回す。
クリスチャンもブリスもいなかった。冷たい床に足を下ろし、目的もないままおぼつかない足取りでドアへ向かった。
十歩足らずの距離なのに、今日はすごく遠くに感じる。
膝をおった永遠の口から苦しげな喘ぎ声がもれた。
「はあ、あっ…」
とっさに手で口を覆う。
「ゲホッ、ゲホ…っ!」
震える手は赤く染まっていた。
永遠の頭を真っ先によぎったのは、知られてはならないという思いだった。
数日前の毒の恐怖も忘れて水差しに飛びつき、ハンカチを濡らして一心不乱に手についた血をこすり落とす。
乾いた唇を湿らせようとして舌をはしらせると鉄のような味がした。
今度は唇をこする。きつくこすりすぎてヒリヒリすることも気にはならなかった。
赤くなったハンカチを握り締めて、必死に頭を働かせる。
どうすればいい?
二人は鼻が利く。私にはわからなくても、彼らは血の匂いを敏感に感じ取るだろう。
部屋を見回すと自分のトランクが目に入った。その中から小さなビニール袋とチョコレートを取り出したあと、袋に血の付いたハンカチを入れてしっかりと端を縛った。倒れるようにベッドに腰を下ろす。チョコレートの包みを開けて、ひとつを口に、ひとつを手に握り締めた。
これで誤魔化せればいいけれど…。
やることがなくなると気分の悪さが前面に出てきた。
ベッドを這うように進み、ぐったりとヘッドボードにもたれかかった。
少しだけ。ただ目を閉じるだけ…。
永遠はドアが開く音で目を覚ました。幸いなことに眠ったおかげで少し気分が良くなった。
「永遠も腹減ったのか?」
ブリスが足で扉を閉めた。
「えっ? あぁ、そうなの。チョコレートを食べたまま寝ちゃってた」
顔をしかめたブリスがカップと皿をサイドテーブルに置いて、ティッシュペーパーを手に取った。
「チョコ、ついてる」
ブリスに手を掴まれると、永遠はさっと背後に隠した。
「永遠?」
「いいの。自分で拭くから」
ブリスは眉間に皺を寄せたが、一時ためらってからティッシュを手渡した。
「キッチンに行ったらさ、キティーが菓子作ってたんだ。今日はハロウィンなんだって」
ブリスがベッドに腰を下ろすと、その重みで永遠の体が傾いた。
気付かれないようにそっとブリスから離れる。
手を拭いながら、チョコレートが望みどおりの役割を果たしてくれたか、ブリスを横目でうかがった。
彼はじっと永遠の顔を見ていた。
「なに?」
何気なさを装いながらも心臓は早鐘を打っていた。
「ついてる」
ブリスの親指が赤く腫れた唇に触れた。
ほらとチョコレートのついた指を見せつけて、自分の口に運ぼうとするブリスの手を掴むと、永遠はチョコを舐め取った。
「なっ…!」
ブリスの顔が赤く染まる。
永遠にはチョコレートの味しかわからなかったが、ブリスには永遠の気付いて欲しくないものの味が感じられたかも知れない。
「そういうこと簡単にすんな」
自分のことを棚に上げてブリスは言った。
「ごめんなさい。おなかが空いて、つい」
「そんなに腹減ってんのか? じゃあ、これやるよ」
ブリスがサイドテーブルに置いた『これ』を指し示した。皿の上にはクッキーやらタルトやら歯の溶けそうなものが山と盛られている。
我慢できずに目を逸らした。
「キティーが作りすぎたからっていっぱいくれたんだ」
「ありがとう。でもちょっと、その、先に行きたいところが…」
彼は訳知り顔で目を逸らした。
「あぁ。俺のことは気にしなくていーよ。クッキーもちゃんと残しといてやるから」
ブリスがクッキーをつまんでいる間に永遠はそっと立ち上がり、ヘッドボードを握り締めて不意に襲ってきた不快感をやりすごした。
ドアを睨みつけて平静を装ったままたどり着く気力をかき集めた。
若干ぎこちないながらもやり遂げた永遠の額にはじっとりと汗が滲んでいた。
「気をつけてな」
ブリスの言葉が小さな背中にかけられた。
ドアノブを握って苦労しながら明るい声を絞り出した。
「何もありはしないわ」
永遠が部屋を出た後もブリスはじっとドアを見つめていた。
余計なことを言っちまった。