ラストメモリー
玄関口から反時計回りに周り、九時のところへ来ると白く塗られたベンチが置かれていた。
そこには黒く大きな影をひく先客がいた。
「アダムさん。お邪魔をしてしまいましたか?」
何だか静かにしなくてはいけない気がして、永遠はそっと呼びかけた。
アダムはこちらを向き、隣りを叩いた。
「いやいや。かわいいお嬢さんは大歓迎だよ」
永遠はその言葉に甘えて隣りに腰を下ろした。
「美しいところですね、ここは」
目の前に立った梨の木が、地面に自分よりも背の高い影を落としている。
「そう言ってもらえて嬉しいね。ここには都会のような娯楽はないし、気候的にも住みやすい土地だとは言い難い。特にあなたのような人間にはね」
アダムは優しく永遠の手に触れた。
永遠はぼんやりと言った。
「人間だけとは言えません」
アダムが慰めるように手をぽんぽんと叩いてきた。
「友達がひどいことにならなくて良かったね」
「えぇ。でもブリスを苦しめたのは私のせい」
「自分を責めてはいけないよ。永遠さんは知らなかったのだからね。咎められるべきは水に毒を入れたものだ」
アダムが顔をこちらに向けた。
その顔は半分闇に覆われていて不意に恐怖を感じた。
「…あなたに謝らねばならないことがあるんだ」
身をすくめて彼を凝視した。
その視線にアダムは慌てて先を続けた。
「いやいや、そうじゃない。川に突き落としたのも、毒を盛ったのも僕ではないよ。そのことではないんだ」
永遠は止めていた息をそっと吐いた。
「実はね、僕は触れた相手の心を読むことが出来るんだ。それで何度か、あなたの心を覗いてしまってね―実はさっきも」
ああ、そうか―。
どおりで私の状況をよく理解しているわけだ。
「あの時もですね? 初めて会ったとき。私、あなたの目が光るのを見たような気がしたんです」
アダムが小さな笑い声をたてた。
「ああ、見られてしまったか。クリスチャンは嫌がるんだが。すまないね、あなたがどんな人か知りたかったんだ。僕もイヴも親バカで」
だからあの時、クリスチャンはアダムさんから私の手を引き抜いたのね。
永遠は首を振った。
「いいえ。子どもを大切に思うのは当然のことだと思います」
「あなたの親御さんは聡明な娘を授かったようだね」
永遠は悲しそうに小さく笑った。
「後もうひとつ、イヴのことなんだが―許してやってくれるかい?」
永遠の笑みが消えた。
ブリスには言葉遣いを改めるよう諭したが、本当に彼女のことをかばいたいのか、自分でもわからなくなった。
自分へのあからさまな態度も、キティーへの仕打ちも許す必要があるだろうか。
命を狙っているのは、イヴではないかと疑っているというのに。
内心の葛藤を感じ取ったのかアダムはため息を吐き、ゆっくりと語り始めた。
「僕らが出会ったとき、彼女は人間だったんだ。僕は生まれたときからヴァンパイアだったから、親から血を摂る以外は人間と親しくするなと言われていた」
アダムは皮肉な笑みを浮かべてこちらを見た。
理解を示すために小さく頷いた。
わかりすぎるほどにわかる。私とクリスチャンのように、人間とヴァンパイアが惹かれあえば必ずそこに苦しみがつきまとう。ともすれば喜び以上の痛みが。
「それでも、いけないとわかっていたのに僕らは愛し合ってしまった。だから彼女を死なせたくなかったんだ。でもそれは自分勝手なことだともわかっていた」
アダムが永遠の不思議そうな表情に気づいて付け加えた。
「不死になれば親や兄弟、友人の死を見送らなければならないからだよ。だが彼女は親しい人間ではなく僕を選んでくれた。そして僕がイヴをヴァンパイアに変えたんだ。関係のあった人間が死ぬたびに彼女は涙を流した。その死が人生をまっとうした末のものであってもね。僕にとってもつらい時期だった。彼女の苦しみは僕のせいなのだから。でもクリスチャンが生まれてイヴは変わった」
「変わった?」
アダムは頷いた。
「彼女は失った血のつながりを取り戻したんだ。死ぬことのない愛する息子。クリスチャンのおかげで泣くこともなくなった。イヴがクリスチャンに、人間以外のものと一緒になってほしいと思うのは、彼に傷ついてほしくないからなんだ。あなたのことが嫌いなのではなくて、あなたの中に流れる血が、彼女を怯えさせるんだ」
アダムの話を聞いて永遠はうなだれた。髪で顔を隠す。
クリスチャンのこと。ブリスのこと。体を蝕む病気のこと。命を狙われる恐怖。イヴのこと…。
考えなければならないことが多すぎて、その重荷に押しつぶされそうだ。
「ごめんなさい」
「どうして謝るんだい? あなたにこんなことを言った僕のほうが謝らなければならないのに」
心底驚いたような声だった。
「すまないね。あなたのことは本当に大切に思っているんだよ。だけど僕はイヴを愛しているから」
『彼女の肩を持たずにはいられない』と言われなくてもわかった。
私だって同じ立場ならクリスチャンを擁護せずにはいられないだろう。
しばらく二人はそれぞれの物思いに沈み、黙って空を見上げた。
羨ましいくらいに彼らは愛し合っている。
どうして私たちはいがみ合ってしまうのだろう?
近づいたと思ったら、次の瞬間にはそれ以上に、心が離れてしまったように感じる。
イヴが言うように、私は彼のそばにいるべきじゃなかった。
だがもう遅いのだ。すでに不公平な取引を持ちかけて、彼に大きな代償を支払わせてしまった。
だから今度はどんなにつらくても、彼にとって最善のことをしなければならない。
もうほとんど日は沈み、木の影はますます長く、薄くなっている。
ふいにアダムが口を開いた。
「今度はあなたの番だ。僕を打ちのめすような話はないのかい?」
愛するひとにそっくりなアダムの顔を見上げた。
「私は別に…」
アダムはクリスチャンがしようとしたように痣のういた永遠の頬にそっと触れた。
あぁ、この人は知ってるんだ。
アダムの顔が歪んで見えなくなった。
「私、クリスチャンを傷つけたかったわけじゃないの。ただ、いろんなことがあって、もう何が何だかわからなくて、それで、何を信じたらいいのか、何が本当なのか。だから、だから…」
頬を伝う雫をアダムの指が優しく拭った。
「わかっているよ。あなたは私利私欲のために誰かを傷つけたりする人じゃない」
いいえ、私は傷つけてばかりだ。それにこれから一番大切なひとを傷つけようとしている。
彼がまた何百年も、独りきりで過ごさずに済むよう心から願った。
「いいんだよ、泣きたい時は泣くといい。そうすればまた、頑張れるんだから」
嗚咽が止まらなかった。どうしようもなく涙が溢れ、アダムのシャツに吸い込まれていく。
だがアダムは辛抱強く永遠の背中をさすり、慰めの言葉を囁き続けた。
永遠が静かになるとアダムはポケットからハンカチを取り出した。
「拭きなさい。かわいい顔が台無しだよ」
アダムが屋敷を仰ぎ見ている間に、涙の跡を拭う。