ラストメモリー
もう嘘はつくまいと考えているのだろう。蚊の鳴くような声で答えた。
永遠はかわいそうに思い、早口で告げる。
「別に非難してるんじゃないのよ。私、応援してるんだから」
キティーのすがるような潤んだ瞳が必死さを顕わにしている。
「男が男を好きになるなんて、気持ち悪いとお思いにはなられないのですか?」
「いいえ。人はみんな違うものよ。違って当たり前。だからこそ相手を理解したいと思うし、歩み寄ろうとする…ヘクチュン!」
ジュリーがゲラゲラと笑った。
「永遠ってちょっと残念なところもあるのよね」
風呂から上がると、白いふんわりとしたワンピースが用意されていた。くるぶしに布をまとわりつかせながらブリスの元に急ぐ。
ドアを勢いよく開けると、ブリスは片腕を腹の上に載せてヘッドボードにもたれていた。
その隣ではウサギが自分のあごを枕にして眠りこけている。
「ブリス! 大丈夫だった? 怪我はしてない?」
ベッドへ駆け寄るとブリスが薄目を開けた。
「うん? あぁ、俺は何ともない」
窓際で腕を組んでいたクリスチャンは痣の浮いた永遠の顔を見つめた。
「君は無傷では済まなかったようだな。何故君はそうもおっちょこちょいなのだ? 何故もっと気をつけない?」
永遠は奥歯を噛み締めた。
彼は私の不注意で川に落ちたと思っている。
だけど、私は知っている。誰かに殺されかけたんだと。確かに一瞬は諦めようと思ったけど、でも―。
「永遠、クリスは怖かったんだよ。永遠が怪我をしたのに、自分には助けられなかったってわかってるから」
だからきつい言い方も許してやれと言うのね。
永遠はベッドから立ち上がった。
「クリスチャン」
クリスチャンは腕を解き、黙って近づいてくる。
いつもより距離をあけて、彼は止まった。
永遠には物理的にあけられた距離と同じくらい心が離れてしまったように感じられた。
痣のういた頬に手を伸ばされて、思わず永遠は身を引いた。
彼の目に傷ついた色が浮かぶのを、後悔と共に見つめた。彼は静かに手を下ろし、自嘲的な笑みを浮かべた。
「君はあのウサギよりも警戒心が強いな。怖がらなくていい。故意に傷つけはしない」
彼は『故意に』という部分を強調して言った。
永遠は袖口をいじりながらおずおずと言った。さっきの怒りも忘れ、彼の痛みを取り除きたい一心で。
「私、うっかりしてて川に落ちたんじゃないの。誰かに―」
小さなうめき声を聞きつけ、言葉を切った。
「ブリス?」
ブリスは身体を丸めてベッドに横たわっている。
不安にさいなまれながら手を触れると、ブリスの体は熱かった。
「熱があるわ! 私のせいで川に入ったから―」
「いや、ウェアウルフがそんなことくらいで熱を出すはずがない」
「だけど…実際、熱があるのよ。理由なんて関係ないわ」
クリスチャンは難しい顔をして部屋を出て行った。
永遠がいつかしてもらったようにブリスの額に濡らしたタオルを載せ、ほかに出来ることはないかと辺りを見回していたとき、クリスチャンがジュリーを連れて戻ってきた。
「早速始めるわよ!」
「始めるって何を?」
永遠は眉をひそめた。
「こいつは恐らく風邪ではない。君はさっき、『誰かに押された』と言うつもりだったのだろう?」
傷つけたくはないが、彼女には知る権利がある。心が痛まぬよう永遠から視線を外して続けた。
「…君を狙った毒にやられたのだと思う」
永遠は息をのんだ。
胸が痛んだ。私のせいでブリスが苦しんでいる。死んでしまうかもしれない!
クリスチャンが目を逸らしたことにも傷ついた。
彼は私のことを非難しているのだ。私がここに残りたいなんて言ったから、みんなが傷ついてしまう。すべて私のせいだ。
ジュリーは二人の間の空気を察して、明るい口調で告げた。
「そういう訳だから、朝起きてから今までに美形君が食べたものを教えて欲しいんだけど」
永遠はブリスを見た。顔が赤く、苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
自分を責めるのは後でもできる。今はブリスのことを考えないと。
いつものように痛みや苦痛を心の奥深くに追いやり、朝起きたときから今までのことを回想した。
「えっと…ココアを一口と、薬、それからサンドウィッチ…クッキーくらいかしら? その中でブリスだけが口にしたのは薬だけど―」
「薬って? それどこにあるの? 怪しいわね」
ジュリーは目を輝かせた。
「二日酔いのよ。ゴミ箱に包み紙が入っているはず。だけど絶対にそれじゃないわ。だって、キティーがブリスのために用意したんだもの」
ああ、そうねと言いながらも、ジュリーはゴミ箱に手を突っ込んだ。
あからさまにがっかりした顔をする。
「…残念。これじゃないわ」
ジュリーは立ち上がった。
「さてお次は?」
「クッキーはどうだ? 永遠は甘いものが好きだから」
「クッキーなら私も食べたわ」
永遠は言ったが、クリスチャンはその言葉など聞かなかったようにジュリーにバスケットを差し出した。
「…違うみたいね」
ジュリーは手にしたクッキーをかじった。
「あら、おいしい」
サンドウィッチにも手を伸ばす。
「…これも違う」
サンドウィッチを頬張って言う。
「全部違ったわね」
永遠はブリスのタオルを変えた。
そこで水が目に付き、喉が渇いていることに気づいた。
水差しから水を注いで口元に運ぶ。
「待て!」
クリスチャンにコップを奪われた。
「どうしたの?」
永遠は驚いて目を見開いた。
「君は今朝、ブリスに水を注いでやっただろう―自分の水差しから」
永遠の目がますます大きくなった。
「まさか…」
クリスチャンは黙ってジュリーにコップを渡した。
彼女はしばらくコップに触れてから、暗い目を上げた。
「ビンゴ」
コップを揺する。
「強い毒だわ。でも良かったわね。飲んだのが永遠じゃなくて」
「そんな! ブリスが苦しんでいるのに、どうしたらそんな風に考えられるの。死んでしまうかもしれないのよ!」
めずらしく永遠は声を荒げた。
ジュリーは永遠を視線で射抜いた。
「きれいごとばかり言ってられないのよ、永遠。本当に彼が苦しむくらいなら、自分が死んでいた方がよかったと言うの?」
永遠は反論しようと開いた口を閉じた。
「そうよ。あなたが飲んだら確実に死んでたわ。だけどウェアウルフなら、毒が体から抜ければ元通り元気になる」
その言葉に触発されたように、ブリスの腹から大きな音がした。
ブリスは上掛けをはねのけると、何時間か前と同様に部屋を飛び出した。
永遠は半分開いたままのドアに近寄ると、止められる前に立ち止まった。
「少し、外の空気を吸ってくるわ」
屋敷を出たとき永遠は一人きりだった。
太陽は稜線にかかり、空は赤や紫、緑や青と思い思いに染まっている。
深く息を吸い込んで吐き出す。
色とりどりの空とは違って屋敷は黒く謎めいていて、沈んだ永遠の気を引いた。
ふらりと屋敷の周りをめぐってみる。