ラストメモリー
自分自身のままならない呼吸の音がうるさくて、大事な音が聞き取れない。大事な女よりも、身体に酸素を送り込むことを優先する本能が腹立たしくてならない。
ブリスは自分の鼻と口を片手で押さえ、耳を澄ませた。
息をしてない…!
冷たい激流に揉まれた身体に鞭打って、冷たく強張った唇に息を吹き込む。
頼む。頼むから死ぬな。
俺にはお前が必要なんだ!
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホ…」
その音は今まで聞いた中で一番美しい音だった。
「あぁ、よかった! 神よ、感謝します」
敬虔な性質じゃないのに、安堵のあまり意図せず擦れた声がもれた。
大量の水を吐いたあと、永遠が目を開けてブリスを見た。
「神様…。ここは天国なの?」
「何、言ってんだよ。こんなのが天国なら、地獄は目もあてられねぇぜ」
永遠の服はところどころ裂け、色を失った肌にはいくつか青い痣が出来始めている。
「くそっ」
紫色の唇がかすかな笑みを形作る。
「神様が汚い言葉を使ってもいいの?」
「頭も打ったのか? 俺はただのウェアウルフだ」
「美しいウェアウルフでしょ」
ブリスの身体を震えが襲った。冷えたからだが熱を作り出そうとしている証拠だ。
だが永遠は震えていない。
それどころか目をとろんとさせ眠そうだ。
「寝るな」
永遠を抱き起こし身体をこする。
「すぐに暖かくしてやるから」
「寒くない…」
「バカ! それが駄目なんだよ!」
早くあっためねぇと。
永遠は俺より長く水に浸かっていたし、体力もない。
屋敷に戻ることが出来れば―。
ブリスは永遠を抱き上げた。
「これはどうしたことだ!」
目の前にウサギの襟首をつかんだクリスチャンが現れた。
「遅えよ。永遠が川に落ちたんだ。早く屋敷に連れてってあっためてやれ」
永遠をクリスチャンに託す。
それ以上無駄な時間を使わず、彼は瞬時にいなくなった。
確かな重みを失い、空っぽになったブリスの腕がうずいた。
見下ろせば濡れそぼる足に前足をかけたウサギがいた。
「濡れちまうぜ」
それでも脛に足をかけ駆け上がろうとする。
「抱けってか? お前には野生のプライドってもんがねぇのか?」
自力で上がることが不可能だと悟ったウサギは、奇跡的に流れに負けず残っていた靴をかじり始めた。
「うわっ、やめろ。わかったよ、抱きゃーいいんだろ。せめておまえがメスならな。野郎を抱いたって楽しくもなんともねぇ」
ウサギはブリスの腕に収まり、満足げに鼻を動かした。
「ったく…あったけぇ奴」
あったかい…。
目を開けると白い湯気が立ち上っているのがわかった。
「クリスチャン、もう大丈夫よ!」
足音が遠ざかっていく。
彼は足音とは無縁の人なのに。ぼんやりとそう思った。
声のした方を見ると、服を脱いでいるジュリーがいた。
無意識に目を逸らして尋ねる。
「どうして服を脱いでるの?」
「こんなに大きいお風呂だから、わたしも入ろうと思って」
ひどく体がだるい。
ゆっくりと見回すと、同時に二十五人くらいがゆったりと入れそうなサイズは、ただのお風呂と言うには広すぎた。床や壁に使われているのは、きっと大理石だろう。
いつも部屋のバスルームを使っていたから、こんな場所があるとは知らなかった。
「川に落ちたんですって? 気をつけなきゃだめよ」
川…?
ああ、溺れかけたんだっけ。だけどブリスが助けてくれた。
どきりとして身を起こす。
「ブリスは?」
「あの美形君ならさっき戻ってきたわよ。イイ男よねー」
よかった…。
「ふぅー、温まるわねぇ」
手足を伸ばすジュリーとは対照的に、永遠は膝を抱えて身体を隠そうとした。
「恥ずかしがらなくてもいいじゃない。女同士なんだから。それに服を脱がせたとき、あなたが隠そうとしてるものはもう見ちゃったわよ」
ジュリーがにやりとしてこちらを向いた。
「永遠って意外と胸が大き―」
「やだ!」
恥ずかしさのあまりブクブクと鼻まで湯に沈んだ。
ジュリーが笑い声を上げる。
「クリスチャンだって男なんだからきっと気に入るわよ…それとももう見せたの?」
永遠は顔を真っ赤にした。
お湯に浸かりすぎたせいだと思ってくれるといいけど。
「その反応は…彼は知ってるのね?」
「違うのよ。それはあなたが思っているようなことじゃなくて、私が熱を出したときに彼が身体を拭いてくれただけで…だから、違うのよ!」
「へぇー、まぁわたしが口を出すことじゃないけど。それより喉、渇かない? あなた、顔が真っ赤よ。元気になったみたいで良かったわ」
ジュリーは大きな声でキティーを呼んだ。
下を向いたキティーがいそいそとグラスを持ってきた。
「ありがとう」
元はお金持ちだったジュリーは仕えられることに慣れているのだろう。くつろいでグラスを傾けた。
「あの…お嬢様、のぼせないうちにお上がりになるようにと、クリスチャン様が」
視線を逸らせたままキティーがバスタオルを広げた。
タオルに手を伸ばした永遠を横目で見て、ジュリーがグラスを口につけたまま言う。
「同性のわたしに見られるのは恥ずかしがるのに、キティーは平気なの?」
「どういうこと?」
永遠はキティーを見た。
だが彼女は全く目を合わせようとしない。
「気付いてなかったの? その子、男よ」
「まさか―嘘よね?」
キティーは唇を噛んで、命綱のようにタオルをぎゅっと握りしめている。
どうして否定しないの?
「だってこんなに可愛らしい顔をしてるの…に」
事態を悟った永遠の顔を見てジュリーは頷いた。
「そうよ。多分、顔のせいでしょうね。イヴが女の格好をさせてるのよ」
キティーの身体は哀れなほどに震えている。
永遠は自分が裸なのも忘れて湯から上がり、キティーの拳に手を重ねた。
「あぁ、キティー、かわいそうに」
ありきたりな言葉しかかけられない自分が歯がゆい。
「ぼっ、私はずっと、お嬢様に嘘をついていました。ぶたれても、罵られても仕方ありません」
思い返せばキティーは何度も言い直していた。『僕』といいかけて『私』と。
アイデンティティーを踏みにじるなんて、あのひとはなんて残酷なことをするのだろう。
「あなたのせいじゃないんだから、責めたりしないわ」
頬を染めたキティーが遠くを見つめながら永遠にタオルをかけた。
「…湯冷めしてしまいます」
永遠もつられて頬を染めた。
「ねぇ、キティー。私の前では無理して私って言わなくていいからね」
タオルが落ちないようにぎゅっと端を掴んで言う。
「ですが、それでは―」
「言うとおりにした方がいいわよ。永遠って、か弱そうに見えて頑固だから」
ジュリーは空になったグラスを風呂の淵に置いた。
キティーはおずおずと頷いた。
「ありがとうございます」
「あのね、もうひとつだけ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「はい、何なりと」
永遠はタオルの端を弄び、ちらりとキティーを見た。
「キティーはブリスが好きなのよね?」
キティーは耳まで赤くなった。
「…はい」