ラストメモリー
『愛している』という言葉は彼の心を溶かすどころか、さらに頑なにさせてしまった。
どうして私だけは別だなどと思ったのだろう。
ゆっくりと笑みを浮かべた。それがクリスチャンがよくする表情とそっくりなことを、永遠は知らない。
もとはといえば私がいけなかったのかもしれない。多くを望みすぎたから。
彼とは三ヶ月限りの契約だったのに、永遠を望んでしまった。
人恋しくてそばにいてほしかっただけなのに、彼の心を望んでしまった。
もう困らせるのはやめにしよう。
川べりにしゃがみこみ、カップに水を汲んだ。そっとブリスから貰った花を生ける。
ブリスはこの花を摘むのにどれほど苦労したことだろう。
彼の服が汚れていたのも頷ける。ピクニックの道すがら、花と名のつくものは一本たりとも目につかなかったのだから。
カップの水に波紋が広がった。
あぁ、愚かなのは私だ…。どうして今になって大切なひとを見つけてしまったの。
熱い雫が次から次へと転がり落ちる。
だめだ、止められない。
カップをわきに置き、手で顔を覆う。こんな顔では二人の元に戻れない。だけど遅くなれば心配して探しに来てしまうだろう。
心を落ち着けようと、立ち上がり深呼吸を繰り返す。それでも心は頭を裏切り嗚咽が漏れた。
その時、小さく震える背中に何かがぶつかって永遠はバランスを崩した。
ブリスは後を追おうとしたクリスチャンを止めた。
「少し時間をやれよ。あんたが行っても余計にこじれるだけだろ」
身体を強張らせているクリスチャンに問う。
「喧嘩でもしたのか?」
「彼女がわたしを愛していると言ったのだ」
「ふーん」
気のない返事をしながらも、実際は永遠の心を掴んだのが自分であればと思わずにいられなかった。
「じゃあ何で永遠は涙目だったんだ?」
「お前が花をやったからだろう」
子どもに言い聞かせるようにゆっくりと言う。
「その前から泣きそうだった」
クリスチャンが息を詰まらせたような声を漏らした。そして硬い口調で言う。
「愛しているからヴァンパイアになってもかまわないと彼女は言った。死から逃れるためにわたしを利用しようとした」
ブリスは真っ直ぐにクリスチャンを見つめた。
「別にいーじゃねぇか。それで永遠が生きられるなら」
「利用するだけすれば彼女はわたしの元から離れていく―目的を達成したのだから」
「何でそんなに懐疑的なんだよ。永遠はあんたのことを本気で愛してんだよ。だからあんたといたいんだ。けどあんたのためなら命だって惜しまないはずだぜ」
クリスチャンは何の反応も見せず立ち尽くしている。ブリスはたたみかけた。
「あんたはどうなんだよ。永遠を愛してんなら生きていて欲しいはずだ、幸せになって欲しいはずだろ。永遠のこと大切なふりしといて、あんたこそ本当は愛してねーんじゃねぇの?」
自分が愛する女をほかの男とくっつけようなんて、われながら馬鹿だと思う。
俺だって出来ることなら永遠と一緒になりたいさ。
こんな陰気くさい奴から永遠を奪ってやれたら―。
けどそれじゃ永遠が幸せになれない。永遠を愛してるからこそ、自分のことよりも彼女の幸せを優先した。
「わたしは彼女の愛が信じられない。以前、わたしが愛した女には裏切られた。今度は利用されないとどうして言える?」
ブリスはクリスチャンを睨んだ。
「利用されるってどうして言えんだよ」
静かに問う。
「なあ、あんたが守ってんのは永遠か? それとも、あんた自身か?」
クリスチャンに背を向け、永遠を探しに向かう。
「あんたは馬鹿だ」
クリスチャンはただブリスの背中を見つめるしかなかった。
ブリスはウサギを抱きなおした。
永遠は途中に見た川へ行ったんだろう。
もう十分近く経つから、急がないとすれ違ってしまうかもしれない。
水の流れる音が聞こえてきた。
風上にいるから、永遠がどこら辺にいるのか匂いではわからないが、じきに姿が見えるだろう。
「お前太りすぎだろ。何、食ったらこうなんだよ」
ブリスがもう一度ウサギを抱きなおしたとき、何かが水に落ちる音を敏感な耳が捉えた。
冷たい。
手足が痺れて、うなりをあげる水の中から浮き上がることなど不可能に思える。
―死ねば楽になれる
身体が水面を打つ前、誰かが耳元で囁いた。
それとも自分の頭が生み出した幻聴だったのだろうか。
だが今となってはどうでもいいことだ。
身体が水流に揉まれ、岩に叩きつけられても、なにも感じない。
目の前に黒い点がちらついた。
―死ねば楽になれる
私にとっても、彼にとっても。
息を切らせたブリスが川岸に来たとき、花の生けられたカップはあったが永遠の姿はなかった。
ウサギを放すと、冷たい川へと迷わず飛び込んだ。
「永遠!」
水は凍るような冷たさだ。たとえまだ溺れていないとしても、このままでは凍え死んでしまう。
早く見つけねぇと。どこにいんだよ、永遠。
水面を見回しても荒れ狂う白い飛沫しか見えない。
「永遠!」
七、八メートル川下に青いリボンの端が、一瞬だが確かに見えた。
見つけた!
クリスチャンは座り込み、モミの兄弟にもたれかかった。
―ほかの女性と一緒にしないで
―あんたが守ってんのは永遠か? それとも、あんた自身か?
二人の言葉が甦ってきた。
本当にそうなのだろうか。永遠はほかの女とは違うのか? わたしが間違っているのか?
だが永遠と初めて会ったとき、彼女はわたしがヴァンパイアだと知っても恐れなかった。それどころか三ヶ月間わたしと過ごしたいと言った。
最初からヴァンパイアに変化することで死を免れようと企てていたからなのか。
クリスチャンは空を見上げた。
散々、永遠を責め立てておきながら、彼女はそんな計算高い女ではないと反論する自分がいた。
わたしは永遠のことを守ってやりたいと思っている。彼女を傷つける誰からも、痛みからも―そして死からさえも。
それならなぜ命を与えない?
―ほかの女性と一緒にしないで
―あんたが守ってんのは永遠か? それとも、あんた自身か?
クリスチャンには自分がわからなかった。
彼女と初めて会った時のように、またしても混乱の渦に飲み込まれた。
一度、芽生えた疑念は不安を糧にどんどん大きく育ってしまう。まるで何度抜いてもはえてくる雑草のようだ。
わたしのような怪物を誰が愛することなどできる。自分自身でさえ、この世に存在すべきでないと感じているというのに。
信じることなどできない。人間が自分の利益のためならどれほど残酷に、非情に、無慈悲になれるか、クリスチャンは嫌というほど知っているのだから。
目を草地に転じると、ウサギが跳ねてきた。
「お前は何故ここにいる。あいつはどうした? 永遠は…?」
クリスチャンは飛び上がった。
「ゲホッ、ゲホ…」
ブリスがやっとのことで永遠を連れて川岸に上がったとき、永遠の顔は死人のように血の気を失っていた。
「永遠っ…」
耳を永遠の口元に寄せた。