ラストメモリー
永遠もウサギの耳を突っついた。
「…それ俺に聞くの? 男と女の身体の違いくらい知ってんだろ?」
「あぁそういうこと。ペットなんて飼った事ないから、動物は別なのかと思ってたわ」
思わず視線がブリスのズボンを彷徨った。ブリスは慌てて永遠の視線の先を手で覆った。
ウサギは野ウサギのくせに永遠の膝の上でされるがまま大人しくしている。
「君はブリスといい、野ウサギといい、動物に好かれるな」
「俺は動物じゃねぇ!」
ブリスは永遠に笑顔を向けられて、否応なく顔がほころんだ。もごもごと呟く。
「まぁ半分は狼だけど」
「この子、ウェアラビットってことはないわよね?」
永遠はウサギを持ち上げ、訝しげな顔をした。
「いや、そんなのいないから」
ブリスの言葉に安堵した永遠は、蓋が開いたままになっているバスケットに気づいた。
「クリスチャン、ごめんなさい。先に少し食べてしまったの」
「気にしなくていい。君が食べる分には嬉しい限りだ」
クリスチャンが握った手の甲でウサギの頭を撫でる。
ウサギに表情があるのかはわからないが、永遠にはウサギがムスッとしたように見えた。
「名前はつけないのか?」
「うーん、逃がしてあげたほうがいいと思うわ。かごの中にとらわれるよりも、自由に走り回りたいだろうし」
ブリスがサンドウィッチからレタスを抜いて永遠に渡した。
「本当にいいのか? やってみろよ」
永遠はウサギの口元にレタスを差し出した。
ウサギはしばらく鼻をひくつかせてからシャクシャクとかじり始めた。
「で、名前は?」
訳知り顔でにやりとするブリスが問う。
ずるいなぁ…。
ブリスのせいで放したくなくなってしまった。
フニフニと揺れる肉のつきすぎた頬をつつく。
「ウサギちゃん」
「そのまんまだな。それに永遠って性別気にせず名前つけるよな」
「気に入らない・・・?」
ブリスはブリスという名前が嫌だったのかもしれない。
「いや、気に入ってる。ごめん、変なこと言った」
ブリスも何を問われたのかわかったようだ。
クリスチャンは永遠の頭を撫でた。手のひらで、ウサギにしたよりもずっと優しく慈しみをこめて。
「では行こうか。君たちは違うかもしれないが、わたしはまだピクニックをしていないのでね」
永遠の反応を見ようとちらりと横を見下ろした。
彼女はくつろいで腹を見せるウサギを抱いたまま、そびえるようなモミの木を見上げている。
「すごく大きいわ。いつからここに根を下ろしているのかしら」
木に近づき手を触れる。
「こいつは両親が植えたのだ。わたしが生まれたときに」
「じゃああなたの兄弟なのね。六百年もここで見守ってくれているんだわ」
永遠の言葉に驚いた。
自分もそう感じていたから。ただの木が兄弟だなどと言えば笑われるかと思ったが、移ろいゆくものの中で共に成長してきたのだ。そこには思い入れ深いものがあった。
「立派なクリスマスツリーになるでしょうね」
そう言ってから彼女は困ったように笑った。
「あなたの大切な家族に、ちょっと不謹慎かしら?」
クリスチャンは笑った。
「そんなことはない。クリスマスには飾り付けをして共に祝おうか」
永遠はウサギの柔らかな毛を撫でて、感慨にふけるように言った。
「…そうね。きっと素敵でしょうね」
心もとない表情に思わず永遠を抱きしめた。
「あぁ、永遠。大丈夫だ、きっと大丈夫だから。あれ以来痛みはないのだろう…?」
「…えぇ」
クリスチャンが腕の分だけ距離をあけて顔を見つめた。嘘か真かを見極めるためだとわかった。
「永遠?」
「本当よ。痛みはないわ」
永遠は視線を絡ませた。
「お願い。もう一度ぎゅってして」
クリスチャンは望みどおりにしてくれた。
ウサギは睡眠を邪魔されて煩わしそうに腕から跳び下りた。
本当に痛みはなかった。それに彼に出会うまでに感じていた体の中から引き裂かれるような痛みも嘘のようになくなった。
でも、だからといって楽観は出来ない。日々自分の体が病魔に蝕まれていくのを感じる。両親の最期を知っているだけに死ぬのは怖くないが、その過程が怖かった。
愛するひとに自分の醜い姿を見られるのは恐ろしい。彼がどう感じるかと思うと恐ろしくてたまらない。
もし彼が私を変えてくれれば…。
彼の胸に顔をうずめて言う。
「ヴァンパイアは人間の病には罹らないのよね?」
「ああ」
大きな鼓動の音に消されてしまいそうな短い返事に一瞬ひるんだ。
でももう引くことはできない。聞いておけば良かったと、きっと後悔したままになってしまう。
「じゃあ病に罹った人間がヴァンパイアになったら―」
「治る。だが君をヴァンパイアに変えることはしない」
クリスチャンが後を引き取り、口にしない問いに答えた。
どうして…? 彼は私がいなくなってもかまわないから?
心のどこかでクリスチャンのためらいを感じ取っていたのだろう。
永遠は急いで自分の想いをうちあけた。そうすればクリスチャンが考えを変えてくれると信じて。
「私はあなたを愛してる。ヴァンパイアになってもかまわないのよ」
だがクリスチャンは体を強張らせ、永遠を離した。
「死なずに済むなら、か?」
永遠は目を見開いた。
「違うわ。ずっとあなたと一緒にいたいからよ!」
クリスチャンは嘲るように鼻を鳴らした。
「どうだか。以前わたしを愛していると言った女は、次の瞬間には刃を向けたぞ。君が死から逃れるためにわたしを利用しないとどうしてわかる?」
永遠の体がぶたれたようにのけぞった。
ひどい、どうしてそんなことが言えるの?
たしかに短い間一緒にいただけだが、私のことを打算的だと言うなんて。
彼は何もわかっていない。何も。
永遠は無意識に背筋を伸ばし、強張った声で言った。
「ほかの人と一緒にしないで」
「永遠?」
ブリスが左腕にウサギを抱き、眉をひそめていた。
「何でもないわ。あなた、どこへ行ってたの?」
ブリスが後ろに隠していた右手を差し出した。
「これ。さっきのお詫びに」
小さな花だった。たった一本の小さな花。
ブリスの髪は乱れ、服は枯葉や砂埃で汚れていた。
その心遣いに涙が滲んだ。弱った心にひたむきな優しさはつらすぎる。
「ありがとう…水につけないとね」
涙が溢れてしまう前に永遠は急いでバスケットからカップを取り出し、二人に背を向けた。
「待て、一人で我々の目の届かないところへ行くな」
永遠は足を止めなかった。
ついてきたければ来るだろうし、やろうと思えば私を止めることも出来る。
好きにすればいいじゃない。
彼は愛を知らない、愚かで、頭の固い『怪物』なのだから。
モミの木のもとに行く途中にあった川へ向かった。
予想に反して彼はついてこなかった。口ではああ言ったものの、本当は離れられてほっとしているに違いない。
川岸に立つと水が轟々と流れる様子になんとなく心が落ち着いた。
こんなはずじゃなかった。
彼に愛を告げれば、おとぎ話のように幸せになれるはずだった。
だがそれは間違いだったようだ。