ラストメモリー
「やっぱり二日酔いにココアは合わなかったのね」
クリスチャンはいらいらした様子で永遠の手をとり注意を引いた。
「永遠、真面目に聞いてくれ。敵がわからない以上、我々は館に戻るのが得策だと思う。ここには生物が多すぎる」
永遠は手を握り返し、澄んだ瞳で彼の顔を覗きこんだ。
「それでどうするの? 私達は隠れて暮らすの?」
落ち着いたしっかりとした口調で告げる。
「私は毎日毎日、怯えて暮らすのは嫌よ。まだやりたいことがたくさんあるんだもの。私、あなた達が守ってくれるって信じてるわ。それに、もし駄目だったとしても、別れがほんの少し早まるだけよ」
クリスチャンが両手で永遠の手を包み込んだ。
「もしは起こらない。わたしがそんなことはさせないから」
永遠はキッチンへと足を踏み入れた。
「お嬢様!」
コックや使用人が一斉に姿勢を正した。
「あっ、ごめんなさい。どうぞ皆さんお仕事を続けて下さい。私はただカップを返しに来ただけですから」
一人また一人と少しずつキッチンが動き始めた。
キティーがおずおずと進み出る。
「滅相もありません。放って置いて下されば私が片付けましたのに」
「そんなの悪いわ。すごくおいしかった、キティーが淹れてくれたの?」
「…はい、お口に合って良かったです」
キティーは下を向いて手を揉み絞っている。
きっと恥ずかしがり屋さんなのね。
「あっ、そうだ。頭痛とか胃もたれに効く薬はある?」
「具合がよろしくないのですか?」
永遠は手を振った。
「私じゃなくてブリスがね。二日―」
キティーがぱっと顔を上げた。
「ブリス様が? 大変だ」
そういうと走って行ってしまった。
ブリスを見なかったか聞きそびれてしまったが、知っていればあれほど取り乱さなかっただろう。
「どうかなさいましたか?」
振り返るとエドモンドにじっと見下ろされていた。
「あ、今、キティーを待っていて」
彼の前に立つとなぜか落ち着かない。
眼鏡をかけた厳しい眼差しに、自分の欠点を見咎められているような気になるためかもしれない。
「キティーにお薬をもらおうと思ったんです」
なんとなく言い訳が必要な気がして言った。
エドモンドは表情ひとつ変えない。
「食あたりですか? もし必要ならば治療師を―」
「おっ、お嬢様」
キティーが息を切らして戻ってきた。
「これを、ブリス様にお渡し下さい」
小さな包みを受け取った。
「早くよくなられると良いのですが」
キティーはまた手を揉み絞っている。
もしかして、キティーはブリスのことが…。
「そうね、ありがとう。あっ、エドモ…」
振り返るとエドモンドの姿はなかった。
首をかしげたが、部屋に戻るころには無表情な執事のことは忘れ去っていた。
部屋に戻るとブリスがベッドに転がっていた。
「よかった。外へ行ったんじゃないかって、探しに行こうと思ったのよ」
クリスチャンが鋭い眼差しをよこした。
「もちろん、一人で行くつもりではなかったのだろうな? 君は命を狙われているのだから」
「えぇ、もちろんよ」
おかしなことにクリスチャンはその返事を聞いて、さらに目を眇めた。
「ブリス、キティーがお薬をくれたの。彼女、とても心配してたわよ」
「彼女…? 何でもいーけど薬はいらない…もう治った」
永遠はブリスのベッドに腰掛けた。
「本当に? それはよかったわ。じゃあさっきココアを飲めなかったでしょ。キティーが淹れてくれたんだけど、とっても美味しかったの。貰ってきてあげるわ」
ブリスが腹を押さえ呻いた。
わざと顔をしかめて有無を言わさぬ口調で言った。
「大人しく薬を飲みなさい。ごまかしたってムダよ、あなたは嘘が下手なんだから」
クリスチャンのむせるような声が聞こえた。
「何か?」
目を眇めてクリスチャンを見ると口元がひくついている。
「いや別に」
ブリスがさらに小さくなろうと苦心した。
「やだ、薬なんかいらない」
永遠はため息を吐いた。
「じゃあこうしましょう。あなたが私の言うことを聞いて薬を飲んだら、私はあなたの言うことを一つ聞くわ。何でもね」
クリスチャンの笑みが凍りついた。
「ダメだ、こいつが何を言うか君にはわからないのか? そんなことはわたしが許さない」
「…ほんとに何でもいいの?」
ブリスの声はかわいそうなほど弱々しい。
「もちろん。薬を飲んだらね」
永遠はクリスチャンとは対照的ににっこりした。
「じゃあ永遠と―」
「ダメだ!」
クリスチャンが叫んだ。
「ブリスはまだ何も言ってないわよ。せめて何かを聞いてからにしたら?」
クリスチャンは永遠を睨んだ。
「ダメだ、こいつは『永遠と』と言ったのだぞ。君と何かをしようなんてわたしが許すと思うのか」
ブリスが毛布をかぶった。
「薬、飲まない」
ほら見てと永遠はブリスの方へ手を振った。
「こいつが薬を飲もうが飲むまいが、わたしにはどうでもよいことだ。二日酔いなぞ放っておけば治るだろう。だが、君が関わってくるとなると話は別だ」
永遠はため息を吐き、毛布に手を当てた。
「ブリス、頼みごとをさっさと言って」
「永遠とキスしたい」
クリスチャンが口を挟む間もなく、彼一人にとっては新たな難問が持ち上がった。
「いいわ。なら先に薬を飲むのよ」
いいわだと?
ダメに決まっているだろう!
こいつの言うことなぞこんなことだと思った。まあ、考えていたよりはマシだったが、だがそれでもわたしもしたことがないのに、わたしの前でよくもそんなことを。
永遠が自分のサイドテーブルの水差しから水を注いでブリスに渡した。
ブリスは永遠の気が変わらぬうちにと、さっきまで渋っていたのが嘘のように、一瞬で薬を飲み下した。
「うえー、まじぃ」
期待のまなざしを永遠に向け、手の甲で唇を拭った。
「約束…?」
永遠は悪戯っぽく頬を膨らませた。
「嘘はつかないわ」
永遠がブリスに近づく。
「ダメだ、ダメだ、ダメだ! 君はまだ十八だろう、キスなんてまだ早い」
「お父さんみたいなこと言わないで。わたしはもう十八歳なの。ブリス、目を閉じて…」
お、お父さん! わたしはまだそんな歳では…。
ブリスが目を閉じると、クリスチャンのひるんだ隙に永遠が唇を押し当てた。
それを見たクリスチャンは目をぱちくりとさせ、ブリスは手を頬に当てた。
「これ、キス―」
「約束は守ったわ」
永遠は腰に手を当てた。
「もしかして、永遠ってしたことねぇ…の?」
「下手だった?」
髪で顔を隠した永遠を見てクリスチャンは、ブリスに何とかするように視線で促した。
「いや、あー…悪くはなかった」
永遠がぴくっとした。
「…悪くはなかった?」
クリスチャンはブリスを睨みつけ、もっと何かを言うように手を振り動かした。
「てか、よかった。けど俺はそーいうんじゃなくて、もっと大人な感じのを想像してたから」
頬の染まった顔があらわになる。