ラストメモリー
それは過去の経験のせいなの? ジョセフィーヌを愛していたのに、彼女はクリスチャンを真には愛していなかったから? だが彼は、ジョセフィーヌに自分がヴァンパイアであることを隠していた。彼女は真実を知ったとき弄ばれたように感じたのではないだろうか。だから思ってもいない言葉を浴びせたのかもしれない。
私だってこの命の終わりを知っていなければ、彼に心を許そうとしただろうか? 彼がヴァンパイアであるというだけで、どんなに優しい人かということも知らないで、彼を恐れたのでは? それこそ彼の心を頑なにさせた原因ではないの? 狩るものと狩られるもの、立場の違いが彼を苦しめているのではないの?
私はクリスチャンを愛している。彼が人間でなくともかまわない。ヴァンパイアである彼を愛しているのだから。
まだ口にしたことはないけれど、私の心臓がときを刻んでいるうちに、この気持ちを伝えよう。
彼のためなら残り少ないこの命さえ、躊躇なく投げ出せるのだと。
私の愛で彼の間違いを証明してあげよう。
「グー…」
もうひとつのベッドにはブリスが大の字になって眠っていた。窓に目をやると外はまだ薄暗い。
そのとき視界の隅になにか赤いものが映った。
昨夜、脱いだままだったはずのドレスがきちんと畳まれて窓際のテーブルに載せられ、その上に一輪の赤い薔薇が置かれていた。
クリスチャンかしら?
背の高いベッドから飛び降り、薔薇に手を伸ばした。
「っ!」
一粒の鮮血が噴き出た指を口に入れる。
カーペットに落とした薔薇を見ると棘がびっしりとついていた。まがまがしいそれは次の獲物を狙っているようにも見える。
クリスチャンじゃない。
目を薔薇が置かれていた場所に転じると、さっきは薔薇に隠れていて見えなかったがカードがあった。
恐る恐る指先でカードを持ち上げ、開く。
クリスチャンからの贈り物ではないという確信が強まった。
『クリスチャンに近づくな。さもなくば殺す』
ともすれば血と見まがうような赤黒い字でそう書かれていた。
部屋の扉が開いた音に、慌てて振り向きカードを後ろに隠した。
「クリスチャン、おはよう。早く起きたのね。私も起こしてくれればよかったのに」
クリスチャンは金の瞳でじっと永遠を見つめた。
「よく眠っていたから」
「ああ、そうね。確かによく眠ったわ。だって昨日はパーティーだったんだもの。疲れていて当然じゃない?」
クリスチャンは何も言わずにただ永遠を見つめている。
「…えっと、それ何?」
クリスチャンの手に握られたマグカップを指そうとして手が塞がっているのを思い出し、視線で示した。
「ココアだ。今日は冷えるから」
「私、ココア大好き。寒い日はよく母がココアを入れてくれたわ。そうじゃないと私がベッドから出ないものだから」
「お優しい方だったのだな。君のお母上は」
「えぇ。私だったら、布団を剥いで、耳元で起きなさいって叫んでやるのに」
静かな時間が流れた。
必死に次の話題を考えていたのが、たった数秒だったとしても、永遠にはとても長く感じられた。
その痛いほどの静けさを破ったのはクリスチャンのため息だった。
「永遠、君の話を聞いているのは楽しいが、もう終わりにしないか? ごまかしても無駄だ。何を隠した?」
「何も隠してなんかないわ」
永遠は目を逸らし、下唇を噛んだ。
彼に嘘はつきたくない。でもこんなものを見せたら…。
「わたしがヴァンパイアだということを忘れたのか? 力ずくで奪うことも出来るのだぞ。君が嫌がることはしたくない。だが君を守るために必要ならば躊躇しない。それはわたしが忌むべきものなのだろう?」
永遠は唇を湿らせた。
「どうしてそう思うの?」
クリスチャンはかぶりを振った。
「ココアが冷めるぞ」
一歩も引かない構えのクリスチャンがマグカップを差し出した。
ため息を吐き、件のカードと引き換えにココアを受け取った。
「ただのイタズラだと思うわ」
ココアをすすりながら、万に一つの可能性に賭け、同意を促した。
「怪我もしているのにか?」
「ケガ?」
カードから視線を上げたクリスチャンの目が爛々と光っている。
「君の血の匂いがする」
あぁ、忘れてた。
「見せて」
血の滲んでいた傷はクリスチャンの舌が触れるとすぐに癒えた。
「誰だ? 誰がこんなことをした?」
クリスチャンの牙が伸びた。
「落ち着いて。薔薇の棘が刺さっただけだから」
クリスチャンは血相を変え、牙がすっと引っこんだ。
「それは今どこにある?」
クリスチャンに落とした薔薇が見えるよう右にずれた。
「あっ、気をつけて。棘がついてるから」
だがクリスチャンはすでに、汚らわしいものか何かのように花びらの部分を指先で摘まみ、目をすがめて観察していた。
さっと立ち上がると、つかつかとブリスのベッドに近づいた。
「おい起きろ。我々は結束しなければならない」
クリスチャンはブリスの毛布を剥ぎ、永遠の言った寝ぼすけを起こす方法を実践して見せた。
「いつまで寝ているつもりだ? この役立たず」
「うー、大きな声出すなって。頭いてー」
「ココア飲む? 半分飲んじゃったけど…それともお水の方がいい?」
頭を抱えたブリスが、永遠の差し出したマグカップをじっと見つめた。
「半分飲んだ? …ならもらう」
ブリスはひと口飲んだ後、こくりと唾を飲み込んだ。
「永遠の命が狙われている」
「クリスチャン、それは大げさじゃない? たかがカードと薔薇くらいで」
クリスチャンはブリスの前に棘つきの薔薇を突きつけた。
「また薔薇かよ」
ブリスはベッドに倒れこんだ。
「またってどういうこと?」
クリスチャンは館の薔薇や亡霊のことを永遠に話した。
「君には話すつもりはなかった、無駄に怖がらせるだけだからな。だがこうなっては、知っていた方が君自身気をつけられるだろう。もちろん我々が常に君を守るが」
「…でもあなたのことを好きになった人が、私に嫉妬しているだけかもしれないじゃない?」
クリスチャンは茎を指先でひねり、薔薇を回転させた。
「それなら何故、直接わたしにアプローチしない? 君を蹴落としたところで、わたしがその女を気にかけるようにはならないぞ」
…確かにその通りだ。
永遠は同意の印に頷いた。
ブリスが胃を押さえながら言った。
「けど、相手が亡霊ならどうやって永遠を守んだ?」
クリスチャンは脚を指先でトントンと叩いている。
「…わからない。そもそも本当に彼女の仕業なのだろうか? これまで脅迫状をよこすような回りくどい事はしなかった。薔薇を切ろうとした女の指を切―」
ブリスがわざとらしいくしゃみをした。
「―とにかくもっと直接的だった」
ブリスは髪をクシャクシャとかき回した。
「けっきょく俺らが永遠を守りゃーいいんだろ。何でもきやがれ、俺がやっつけてやっから。けど今は―ギブ!」
ブリスが部屋を飛び出した。
扉がバタンと閉まる。
「大丈夫かしら?」
永遠はブリスが一口しか口をつけず、サイドテーブルに置かれたマグを覗きこんだ。