ラストメモリー
大きな音に驚いて振り返るとブリスの前に高価そうな、だがすでに原形を留めていない花瓶と思しきものが散らばっていた。
「どうしましょう!」
永遠はブリスの手を掴んで怪我はないか確かめた。血が出ていないことを確認した後、エドモンドとクリスチャンに顔を向けた。
「ごめんなさい。私が弁償しますから…」
「気にしなくていい。ずっと使っていなかったのだから」
クリスチャンは口にはしなかったが、それはスチュアート朝時代に両親が手に入れた値がつけられないほど高価なもので、永遠に弁償しきれるはずはなかった。
エドモンドはメイドを呼び片付けるように言いつけた。
永遠はもうブリスが何も触らないよう見張るため自分の横を歩かせた。
ようやくエドモンドが足を止めた。永遠はそっと安堵の息を漏らした。
「旦那様、奥様、坊ちゃま方をお連れしました」
扉の先には仲良くソファに腰掛け見つめ合う男女がいた。
エドモンドが咳払いをひとつすると男性がこちらに目を向けた。
「おやイヴ、クリスチャンが来たようだよ。あとかわいいお嬢さんと、ペット君も」
永遠の耳にブリスの小さな唸り声が届き、永遠はそっとブリスの手をとった。
女性の緑の瞳が輝いた。
「クリスチャン! また足音を立てないで歩いたんでしょう、まったく困った子ね。会えて嬉しいわ、ママにキスしてちょうだい」
そう言う間もソファの二人は手を重ねたままだった。
クリスチャンの両親は互いにとても愛し合っているのね。
母親の言葉を受けてもクリスチャンはその場を動かなかった。
「父上、母上、お久しぶりです。こちらは永遠です。そしてこっちはブリス、ペットではありません。彼は…友人です」
クリスチャンの母親は無視されて不満そうだった。
「おやおや、それはすまなかった。冗談のつもりだったのだがね」
クリスチャンの父親は永遠たちに席を勧め、エドモンドに茶を持ってくるように言いつけた。
「で、永遠さんはクリスチャンのどこを気に入ったのかな?」
クリスチャンは父親似だった。正確には瓜二つだ。きっとクリスチャンが人間でいう四十代の姿になったらこんな感じなのだろう。
「クリスチャンはお父様似ですね」
部屋にクリスチャンの父親の笑い声が響いた。
「いや、そうかね。ということは、わたしのことも気に入ったということかな? 実際この子と似ているのは見た目だけなのだよ。中身はまったく別物だ」
まったく暗い子でねと含み笑いをしながら付け加えた。
永遠は心の声が漏れてしまったことに赤面しながらも言わずにはいられなかった。
「そんなことないですよ。クリスチャンは優しくて、一緒にいて楽しい相手です」
クリスチャンの父親は永遠の手を取り顔を見つめた。クリスチャンと同じ金の瞳が確かに光を放った。
「…クリスチャン、いい人を見つけたね」
クリスチャンは父親の顔を見た。
「ありがとうございます、父上。しかし、それは止めて頂きたい」
クリスチャンは父親の手の中から永遠の手を引き抜いた。
「おやおや失敬。永遠さん、わたし達のことはアダム、イヴと呼んでおくれ。家族になるのだからね」
永遠はそわそわとクリスチャンを見上げた。
「私、年上の方を呼び捨てにするのは…」
その言葉を聞いたアダムは妥協案を提示した。
「ああ、君は日本人だものね。日本ではそういう習慣がないのだろう。ではアダムさん、イヴさんではどうかな?」
永遠は安堵の表情を浮かべた。
「はい。それなら」
「ねーえアダム、この人はやっぱり…。エリカの方がクリスチャンにはふさわしいんじゃないかしら」
イヴがアダムのほうに身を乗り出した。
「イヴ、永遠さんに失礼じゃないか。君がパーティーを開きたがったのだろう?」
「だってー、考えていたのと違ったんだもの。この人はすぐに死んでしまうのよ」
言葉が重くあたりに漂った。
ブリスがぴくりとし、永遠は笑みを浮かべるなりこの重い空気をなんとかしなければと思った。
どうすればいいのかと考えているうちに、クリスチャンが席を立ち、手を引いて永遠も立ち上がらせた。
「母上、いくらあなたでもそのような言葉は聞き捨てなりませんね。私の婚約者に謝って頂きたい」
「えー、でも本当のことでしょう。すぐにいなくなる人間なんてクリスチャンがかわいそうだわ。ママはあなたのために言っているのよ」
イヴはねぇとアダムに擦り寄った。
「いいやイヴ、謝りなさい。クリスチャンにはもったいない人だよ」
クリスチャンだけでなくアダムからも責められたイヴは頬を膨らませて永遠を睨んだ。
「あの…気になさらないで下さい。本当のことなんですから」
重い雰囲気に耐え切れず、考える前に言葉が口からでていた。
「母上、謝る気になれば我々は部屋にいますから」
クリスチャンは永遠の手を引き扉へ向かった。
クリスチャンがノブに手をかけようとした時、ちょうど扉が開いてトレーを手にしたエドモンドが入って来た。
「お茶の用意が出来ました」
クリスチャンは無表情に言いつけた。
「熱い茶を淹れてやってくれ。礼を欠いたことばかり言う舌が使えなくなるくらいの」
「マジであのババア何なんだよ! 永遠にあんなこと言うなんて」
ブリスはベッドに飛び乗り胡坐をかくと悪態をつき始めた。
「ちょっとブリス! クリスチャンのお母様なのよ」
「いや、こいつの言う通りだ。長い間離れていたせいで忘れていたが、母は昔から何でも自分の思い通りにしないと気の済まないわがままな人だった」
「だけど私のせいで、ご両親と喧嘩したり雰囲気が悪くなるのは嫌だわ」
クリスチャンは永遠の手を握り目を見つめた。
「君は優しいひとだな」
「なあ、俺がいるの忘れてない?」
ブリスは暑い暑いと手で顔を扇いだ。
部屋にノックの音が響くのと同時に扉が開いた。
永遠は手を離そうとしたがクリスチャンがそうはさせなかった。
イヴは繋がれた手を見て口元を引き締めたが、こわばった笑みを永遠に向けた。
「永遠さん、さっきはごめんなさいねー。お詫びに明日のパーティーのドレスを一緒に選ぼうと思って、誘いに来たのよ」
「あっ、ありがとうございます」
クリスチャンは目を細めてイヴを見てから、永遠に優しい眼差しを向けた。
「行っておいで」
永遠がイヴの後から部屋を出て行くと、クリスチャンはブリスの前に腰を下ろした。
「お前に話があるのだ」
ブリスは眉を上げた。
「何だよ、改まって…ああ、あれだな。さっき俺のことを友人だっつったのは、言葉の綾だとでも言いたいんだろう…別に俺は気にしないぜ」
「いや、それは言葉通りの意味だ。お前は友人…だとわたしは思っている」
ブリスは面食らったようだったが不揃いの瞳が輝いた。
こんなことを言いたかったわけではない。気恥ずかしさにむすっと息を吐く。
「永遠のことだ。お前は永遠を大切に思っているな?」
「当たり前だろ? 何、俺に永遠を譲る気なの?」
「馬鹿を言うな、真面目に聞け。ではお前は永遠のためにどこまで出来る?」
ブリスが不敵な笑みを浮かべる。
「命だってくれてやるよ」