ラストメモリー
「大した話はしていない。昔話をしただけだ、女のせいで長く館から離れていたことがあると」
今度はため息をつくとブリスは永遠の熱い頬に手を当てた。そして額のタオルを変えるようクリスチャンを促した。
「それだな。あんたがここにいられないようにはしたくなかったんだ。永遠はあんたに煩わしがられてるんじゃないかと思ってたんだよ。だからあんたの代わりに外に出てた」
クリスチャンの胸が締め付けられた。
立ち上がったブリスはカーテンを開けて闇に包まれた部屋に月明かりを入れた。
「永遠が外で何してたと思う? 楽しく散歩でもしてたと思うか?」
ブリスの口から小さな唸り声が漏れた。
「湖の側に座って一日中、ただ湖を眺めてんだぜ。俺がただの狼だと思って、たまにぽつぽつと思いを語るんだ。俺は知ってるから。そういう時、会話の相手は必要ないって。ただ聞いてくれる、温もりを与えてくれる相手さえいれば十分だって。だから俺は今まで狼のままでいたんだ。永遠が思いを吐き出せるように。だけど―もう限界だった。今日は俺にさえ何も話さなかった。落ちてくる雨粒を払いのけもしないで、黙って泣いてた」
ブリスはすばやく振り返ると問いただした。
「何で永遠にひでー態度とってんだよ。あんたが気に食わねーのは俺だろ。答えろよ!」
「…言えない」
「言えねーんじゃなくて、言いたくねーんだろ」
ブリスは睨みつけた。
何も言わずクリスチャンは永遠に眼差しを注いだ。
わたしに何が言える?
彼女の身にもしものことがあれば耐えられない。そしてそのもしもが起こるとすれば、それはわたしのせいだ。だからこそ、何と言われようと口にすることは出来ない―少なくとも今はまだ。
ブリスは舌打ちすると足音も荒く部屋を出て行った。だが彼の苛立ちとは裏腹に扉はそっと閉められた。それはひとえに永遠のためだとわかっていた。
二人きりになってもクリスチャンは永遠を見つめるだけだった。ただほんの少し椅子をベッドに寄せた。離れてしまったであろう心の距離を、物理的にだけでも縮めたくて。
「アオーン…」
狼の遠吠えが聞こえた。だがそれに答えるものはなく、物悲しく怒りに駆られたその声は、たった一人荒涼とした大地に置き去りにされた。
クリスチャンはカーテンが開けられたままの窓を見やった。雲間から覗く明るすぎる青い三日月に、何もかも盗み見られている気がして金の瞳を閉じる。
何かを壊したい、傷つけてやりたいという欲求に駆られ牙が存在を主張する。
だが今までもそうだったように、出来もしないことを望むよりも彼は今すべきことをした。
クリスチャンは一睡もせずに、太陽が月に取って代わるまで永遠を見守り続けた。
ブリスは明け方近くに戻ってきた。一目散に永遠の傍に寄り頬に触れる。
「下がってない」
頬に指を残したまま、数時間前の憤りを感じさせない声で問う。
「目は覚ました?」
クリスチャンは何度掻きあげても落ちてくる髪を煩わしそうに撫で付けた。
「ああ、何度か。水を飲ませた」
「医者を呼んだ方がいーかもな」
「この辺に医者はいない。いるのは…」
「お医者様は要らないわ」
永遠が薄目を開けた。
クリスチャンは永遠に顔を近づけた。
「大丈夫か?」
それは愚問だった。対してブリスは的確に尋ねた。
「水、飲む? 食えるなら桃も食った方がいい」
永遠は起き上がろうとしたが、熱に奪われた体力がそうはさせなかった。
見かねたブリスが枕を支えにして、ヘッドボードにもたれかけさせたが、永遠はそれだけで目が回り喘いだ。
「寝ていた方がいいのではないか」
クリスチャンは横にならせようとしたが永遠はクリスチャンの腕を掴んで止めた。
「大丈夫。私がいつまでも寝てたら困るでしょう」
永遠は家事のことを指して言ったが、二人は永遠が苦しむことが困るのだと考えて頷いた。
「じゃあ俺、桃、持ってくるな」
ブリスは走っていってしまった。
思いがけず二人きりになってクリスチャンは気詰まりな沈黙を埋められずにいた。
「クリスチャン? ごめんなさい、いつも面倒ばかりかけてしまって」
「そんなことはない! 面倒だなどとは思っていない。ただ、その、わたしは…」
口を開いたが言えなかった。
二人の間に静かなときが流れた。口にされなかった言葉を思って永遠は熱に潤む瞳をクリスチャンに向け、悲しそうな微笑を浮かべた。
「すまない」
彼の謝罪が胸を少しずつ蝕んでいく。謝ってくれなければいいのに。そうすればまだ救われただろう。
ただ出て行ってくれと言ってくれさえすれば。
「持ってきたぜ」
部屋へ駆け込んできたブリスが差し出した皿には、カットしたと言うよりは、ぎゅっと握りつぶしたと言った方がいいような歪な形の桃が山と盛られていた。
クリスチャンはそれを目にして眉をひそめたが、永遠はブリスに笑顔と感謝の言葉を送り、皿からひとつを摘まんだ。
いくつか摘まむ間に濡れてしまった指を咥える様を、二人は魅せられたように固唾をのんで見つめた。
薬を飲み終えると永遠の空元気も切れ、ベッドに沈み込むと同時に二人は忘却の彼方に追いやられた。
翌日にはまだ熱はあるものの表面上はずっと元気を取り戻したように見えた。
部屋には太陽が取り込まれ、久しくなかった明るい雰囲気が漂っていた。
「ねぇブリス、お願いがあるんだけど」
クリスチャンがすかさず身を乗り出した。
「君の願いならわたしが叶えてやる」
永遠の笑い声が響いた。
「いいえ、あなたよりブリスの方が近いもの。窓を開けて欲しいの」
窓際に立っていたブリスは鍵を外した。
「永遠、まだ治ったわけではないんだぞ。また熱が上がったらどうする」
「だけどクリスチャン、私、今日はお散歩に行けないのよ。せめて外の空気を吸いたいの」
窓から冷たい風が舞いこんできた。
「寒くはないか?」
「いいえ、十分に温かいわ」
彼と目を合わせようとせずに永遠は窓の外を見た。
クリスチャンはその様子を見ながら咳払いをして言った。
「今度からはわたしも君の散歩に付き合う」
永遠はすぐに尋ねた。
「どうして?」
「君と同じ時を過ごしたいからだ」
永遠は振り返ってクリスチャンの表情を窺った。偽りを見抜くのは得意だ。今までずっと人の顔色を窺って生きてきたのだから。
首をかしげて見つめ、しばらくしてから微笑を浮かべた。
「いいわ。じゃあ早く元気にならなくちゃ」
「俺も永遠と一緒にいたい」
後ろでブリスが呟くのが聞こえた。今度はブリスの方を向く。
「もちろんあなたも、私に付き合ってくれるでしょう?」
ブリスの戸惑い混じりの表情が少しだけ明るくなる。
「いいのか? だって俺ウェアウルフだし、目、気持ち悪いし―」
それ以上ブリスが自分を卑下するのを聞いていられず永遠は言葉を遮った。
「もうその話は済んだと思っていたわ。私はあなたが何であろうと気にしないし、あなたの美しい目が好きよ」
太陽が翳った。ブリスの満面の笑みには敵わないと雲の後ろに身を潜めたかのように。