ラストメモリー
クリスチャンの手が永遠の胸をかすめるとブリスが囁いた。
「なあ、どんな感じだ?」
クリスチャンはブリスを無視した。
ついにすべてのボタンが外れた。ワンピースがわかれ、汗ばむ身体があらわになる。その身体と白い清楚な下着の対比が意図せずエロティックだった。
「エロ…」
ブリスの言葉にもっともだと思った。その反面、抵抗できない相手に対してそんなことを考えている自分を下劣にも感じた。それからはただ黙々と作業に専念した。
拭き終えたときには頬の赤みが少し引いていた。だが服を脱がせても何の反応もなかったことにクリスチャンの心配はいや増した。
「わたしは風邪なぞひいたことがない。ほかには何をすればよいのだ?」
気に入らなくとも今はブリスに頼るしかない。
「そーだな、普通は食って寝りゃー治んだけど、永遠は体が弱そうだから薬も飲ませた方がいいんじゃねーかな?」
クリスチャンはなるほどというように頷いた。
「そうだな。では薬を」
そそくさと部屋を出ようとしたところをブリスが引き止めた。
「慌てんなって。ここが問題なんだよ。薬の前に何か食わせねーと」
普段から食の細い永遠に食べさせるのは至難の業だ。ましてや風邪を引いて食欲がないだろう永遠に食べさせるとなると…。
「わかった。桃も持ってこよう」
クリスチャンが必要なものを手に部屋へ戻ると、ブリスは何をするでもなくただ永遠の傍に立って彼女を見下ろしていた。
クリスチャンに気づくとその表情は消えたが、その前にクリスチャンはすでに目にしていた。
大切なものが傷つくことの苦痛の表情を。自分の痛みには耐えられても、相手のそれは耐え難い。
あえてクリスチャンは何も言わなかった。彼自身も馴染み深いそれに見合う言葉など、到底在りはしない。ただ腕にかけた自身のシャツとズボンをブリスに投げた。
「着ろ。いつまでもそのままでうろつかれると目障りだ」
服を受け止めたブリスは腰にタオルを巻いただけの自分を見下ろした。
「実は興奮してたりして。本当はあんた、男が好きなんじゃねーの?」
クリスチャンは鼻を鳴らした。
「たまらないね」
ブリスはにやっとして、タオルを落とし服を着込んだ。自分の表情を見られていなかったことに安堵しながら。
クリスチャンは気にも留めず、永遠の傍に腰を下ろし彼女を見つめていた。また熱が上がったようだ。頬が赤く、息をするのも苦しそうだ。額のタオルは永遠の熱を吸い、温くなっていた。
桶の冷たい水で清めなおしタオルを額に戻す。
「永遠」
そっと呼びかけたが反応はない。
指先で熱い頬をなぞり、この熱を吸い取ってやれたらと願う。
「永遠、桃を買ってきたのだ。一口だけでも食べられないか? そうすれば薬を飲んで、君を苦しめる熱を下げられる」
皿に盛った桃の一切れを永遠の唇にあてがう。桃の果汁が彼女の唇を濡らした。
すでにブリスは着替え終え、ベッドの脇に膝をついて永遠を見守っている。
永遠の赤い舌先が口の間から覗き、唇についた果汁をそっと舐めた。
「おいしい…」
永遠の口からこぼれた言葉に二人は顔をほころばせた。
その唇にそっと桃を押し当てたが、永遠は舐めることはすれど実をかじることはない。
咀嚼するだけの体力もないのか。クリスチャンはいぶかった。
クリスチャンはその実を小さくかじると、唇を永遠の唇に重ねあわせ実を彼女に譲った。頭の傍でブリスの騒ぐ声が聞こえる。唇を離した後も額と額を合わせて飲み込めと念じる。
ゆっくりと喉が動くさまに目頭が熱くなった。
熱に浮かされてどんよりとした目が開く。
「…うつっちゃう」
「心配しなくていい、わたしはヴァンパイアだぞ。人間の病には罹らない。それよりもう少しだけ起きていられるか? 薬を飲むのだ。そうすればすぐ楽になる」
永遠のまぶたが落ちかけた。
クリスチャンは慌てながらもゆっくりと永遠を起こすと、肩を支え薬を飲ませた。
永遠はたったそれだけの行為でぐったりとベッドに身を沈めた。
クリスチャンが椅子に腰掛け、もう一度タオルを変えている間に、ブリスはベッドの向かい側に椅子を持ってきて座った。
二人は黙って眠る永遠を見つめた。
「食わないか?」
クリスチャンはほんの少ししか減らなかった皿をサイドテーブルから取り上げた。
ブリスは永遠から目を上げず、むっつりと答える。
「あんたの作ったもんは願い下げだっつってんだろ」
クリスチャンはヴァンパイアの笑みを浮かべた。
「永遠の食べかけが嫌なら、キッチンにいくらでも新鮮な桃が転がっているぞ」
それはクリスチャンの精一杯の休戦協定だった。
「嫌味な野郎だな。あんた自分でわかってんだろ」
クリスチャンは皿から桃を一切れつまみ口に入れた。ゆっくりと噛み締め、甘い果実を味わう。
「もっと小さく切り分ければ良かった。わたしも気が利かないな」
ブリスはその様子をしばらく眺めてから言った。
「ヴァンパイアってみんな陰気なの、それともあんただけ?」
クリスチャンは桃をつついた。
「どうだろうな。わたしにもわからない」
クリスチャンは一瞬ブリスを捉え、目を背けた。
「永遠は、何か言っていたか…?」
「何かって?」
クリスチャンは意味もなく桃を並べ替えた。
「…わたしのことなど」
ブリスは頭の後ろで腕を組んだ。
「あんたに教える義理があるか?」
クリスチャンはただ口元を引き締めた。
その様子にブリスはため息をつき宙を見上げた。
「でもまぁ、砂時計はよく眺めてたぜ」
それが必ずしも贈り物を喜んでいたということにはならない。ただ残された時に思いを馳せていただけかもしれない。それでもクリスチャンは望みを捨て切れなかった。今となってはそれが彼女との唯一のつながりかもしれないのだから。
「そうか」
ブリスは椅子の前脚を浮かせ、後脚だけでバランスを取った。
「俺もあんたに聞きたいことがある。あの日、何で俺を助けたんだ? あんたは俺がウェアウルフだってわかってた」
「わたしではない、助けたのは永遠だ。あの時、もしわたしが手を貸さなかったとしても、彼女は一人でお前を救っただろう。わたしは彼女のためにしたのだ」
ブリスはしばらく永遠を見据えた。
「なら俺も永遠のために言う」
椅子の脚を四本とも床につけて身を乗り出した。
「永遠は自分がここにいない方がいいのかもしれないって言ってた」
クリスチャンは目を見開いた。
「そんなことはない! わたしは…」
ブリスが片手を上げた。
「俺に言ってもしゃーねーだろ。最後まで聞けって。で、あんた何言って永遠にそんなこと思わせたんだ?」
「…死ねる君がうらめしい、君と出逢ったことがうらめしいと」
あのときの言葉を繰り返すと、後悔のあまり身震いがした。
わたしはなんてことを言ってしまったのか…。
ブリスはマジかよと呟き、クリスチャンを凝視した。
「ほかには? それだけじゃねーだろ。それだって十分きついけど、永遠は自分がつらいからってあんたから離れてたわけじゃねー」
クリスチャンは視線を彷徨わせた。