水晶少女
こち、こちと秒針の音が響き、そしてカサ、と彼女の本を捲る音が定期的に聞こえる。とても静かな空間。なんだか、色んな物がうまく混ざりあい、奇跡的な均衡を保っているような空気。
僕の心も最初は沈黙に気圧され、緊張していたが、慣れてきた今はしんとした穏やかな心地だった。悪くない。
彼女がパタリと本を閉じた。そうして、イチゴ牛乳をストローでコクリと飲む。
それは女の子らしい無防備な仕草で、僕は声を掛けたくなった。
「ちょっと訊いてもいい?」
僕の不躾な言葉に気分を害さなかっただろうか、と少し不安になったが、しかし彼女はイチゴ牛乳を脇に置き、変わらない無表情で、
「なにかしら」
そう言った。
「君はいつも、どんな本を読んでるの?」
「小説」
彼女は手に持った本から書店のカバーをはがし、表紙を僕に見えるよう掲げた。
タイトルと表紙を見てもどういう内容の小説かは分からなかったが、デザインから察すると、殺伐とした感じより爽やかそうな印象を受けた。
「好きなんだ、小説」
彼女は僕の方を見ながら、
「そう見える?」
「いや、いつも小説読んでるからさ。嫌いなら、そんなに小説は読まないだろ?」
彼女は少し考えるよう視線を小説に漂わせ、
「そうね。好きだから、読むのでしょうね。私の半身と感じられるほど」
確かめるように、そう呟いた。
半身、か。僕は想像してみても、そこまで思えるものが存在しなかった。羨ましいと思う。
「もう少し、訊いてもいい?」
「どうぞ」
「小説のどんなところが好きなの」
結構答えにくい質問をしてしまったかな、と僕はちょっと後悔した。感情の理由を考えるのは、なかなか骨が折れることだからだ。
「自分以外の人間の、思考や感情を体験できるから」
「……それは漫画やドラマでもできるんじゃないかな」
鬱陶しい被せ方ではあると僕は自覚しつつも、そう言わずにはいられなかった。
彼女のことをもっと深く知りたい、という強い欲求があったからだ。
「文字媒体が好きなの。ドラマや漫画では味わえない、文字で綴られる深い心理描写が、私は好きだから」
「……なるほど。それはなんとなく分かるな」
僕はこれ以上あれこれ質問するのは、いい加減うんざりするものだろうと思い、
「ありがとう。色々答えてくれて。読書の邪魔してごめんね」
「別にいいわ。どうせ暇だったのだし」
そして彼女はポツリと、
「あなたって、変わっているわね」
そう呟いた。僕が変わっている? そんなことを言われたのは初めてだった。
「そうかな」
「普通の人は教室で私と二人きりになったら、特に何をするでもなく一人でぼけっとして、かと思えばいきなり小説の何が好きかなんて訊かない」
彼女の声に、わずかに呆れの色が混ざっている気がした。
「……もしかして僕は君に迷惑かけてない?」
彼女は首を振り、
「いいえ。ただちょっと変わっている、と思っただけ。迷惑とは思っていないわ」
そう言いながら、彼女は小説をぱたりと閉じ、鞄に詰めた。空になったイチゴ牛乳のパックを手に持ち、そして席を立つ。
「帰るわ」
彼女は扉の方へと向かっていく。
「そう……ばいばい。また、明日だね」
僕は手を振りつつ別れの言葉を伝えた。
「……また、明日」
呟き、彼女は僕に振り返ることもなく、颯爽とこの場から去っていった。
一人残った僕は、自分の席を眺めていた。今この瞬間まで彼女が座っていた席。
針女。彼女のあだ名。僕はそれについて考えた。彼女にそのあだ名は相応しいのだろうか、と。確かに普段の集団に紛れている彼女は剣呑とした雰囲気を纏っている。触れれば傷つきそうな、鋭利な針を思い起こす。
だけどこの放課後の、一人で小説を読んでいる彼女は、どこにでもいるイチゴ牛乳が好きな、大人しい文学少女にしか思えなかった。
彼女の本質はどちらだろうか。初めから人を忌み嫌っているのか……それとも本当は普通の女の子で、不器用な表現でしか人と接することができないのか。僕は強く彼女を知りたい、と思った。彼女の心の中を覗いてみたいと。