水晶少女
窓から射す淡い橙色の光。ほのかな風に煽られて舞うカーテン。
部活に励む生徒たちの遠い喧騒。
そして、教室という空間でただ一人孤独に在り、窓から広がる茜空を背景に……机に肩肘つき、本を気だるげに読む、美しい少女。
なんて、完成された、美しさだろう。
何の根拠もなく、しかし確固として、僕はこの眼前に映る光景を忘れないだろうと思った。崇高な名を冠した宗教画を切り取ったようなイメージ。先ほどまでの疲弊もどこかへ吹っ飛び、僕は扉を開けたままの姿勢で、ただ見惚れた。
彼女がふと本をから目を離し、こちらに視線を向けた。
数秒、僕の姿を観察し、そして興味がなくなったように、また本へと視線を戻した。その変化が、この教室の完全性を瞬時損ね、僕は夢心地から解放された。僕は頭を振り、努めて冷静にこの状況の理解をしようと思った。
時刻は四時。僕は古文の宿題を探そうと教室に戻ってきた。教室に居るのは窓辺に座る彼女一人。そこまで考えて、僕は違和感を覚えた。何かヘンだ。やがて気付く。彼女の座っている席がおかしいのだ。彼女の席は、廊下側だったはず。校庭に面する窓辺ではない。そして何より……彼女が今座っている場所は、見紛うことなき僕の席である。なにゆえ?
まあ何を考えるにしても、まずは自分のやるべきことをしよう。プリントの回収だ。そう思い、僕はぎこちなく教室へと足を踏み入れた。
僕という不純物が混じったせいで、この教室に保たれていた神聖さが随分損なわれた気がした。だが、そんなことを気にしていても詮無い。大体ここはどこにでも有り触れている普通の教室のはずだ。そう自分に言い聞かせ、僕は彼女の座っている席へと近づいた。
彼女は僕の接近に気付いているはずだが、露ほども反応を示さなかった。
彼女の隣に立つ。なんと声を掛けようか、僕は逡巡した。
『大変恐縮なのですが、少しばかり机の中を拝見させてもらってもよろしいでしょうか?』
とか。
……なんという卑屈さか。僕の席なのにそこまで下手にならなきゃいけないのも、かなり虚しい。
「邪魔、かしら」
澄んだ声が、僕の耳朶を打った。どこからその声が聞こえたかということがとっさに判別できなかった。この教室には僕と彼女以外いない。ということは僕の脳内妄想でない限り彼女から発せられた言葉だ。そう理解するのにかなり時間が掛かった。
「い、いや、邪魔なんてとんでもない。ただ僕は、ちょっと忘れ物して、確認のために机の中を見させてもらいたいだけなんだ」
「……」
「も、もちろん君が良ければ。君の読書を妨害しようなんて、ホントに少しも思っちゃいないから」
彼女は本に栞を挿し机の上に置き、腰でイスを引いて、僕の机の中を覗き込んだ。長い黒髪がサラサラと零れた。彼女の細い腕が机の中を探る。なんともくだらない発想だが、僕は自分の体を弄られたような気分になった。
「あなたの忘れ物は、これ?」
彼女は机の中から白いプリントを出し、両手で僕の眼前に広げた。
古文活用表一覧。未然、運用、終止、連体。うん、まさしく僕の求めていたものだ。しかし彼女と間近で対面になるのは初めてだ。正面に映る彼女の顔。目、鼻、口。どれも隙がなく整ったパーツ構成。そしてそれを装飾する絹のように滑らかな黒髪。
改めて彼女の美麗さには、感服せずにはいられない。ぐっさりと僕の顔面に突き刺さる視線の鋭さを脇に置いとけば。
「うん、それだ。ありがとう」
僕は彼女からプリントを受け取った。きっちりと鞄の中にしまう。
「岡崎はねちっこいから、忘れないでよかったわ」
再び本を開きながら、彼女はそう呟いた。
「そうだね」
彼女が僕のことを気に掛けてくれたのはちょっと意外だった。僕に多少なりとも興味あるのかなあと一瞬思ったが、残念ながらたぶん違う。彼女も岡崎先生のねちっこさに辟易しているだけなのだろう。