水晶少女
今まで何度か彼女に話しかけようと思ったことはある。何の本読んでるの? とか、僕と友達にならない? とか。しかしそれらを実行に移したことはない。
人の目が気になったし、何よりばっさりと拒否されるのが怖かったからだ。でも、何もできないというのはあまりに寂しかった。
だから、毎日、下校の時間になったとき、僕は彼女に『また明日』と声を掛けるようになった。それは一種の予防線のようなものだ。ただの別れの挨拶に、嫉妬も愛情も憎しみも何もない。あるのはどこにでもありふれている、無色透明の軽い言葉だ。
最初から彼女はそれを無視した。
僕は始めのうちは結構へこんだが、しかし慣れとは恐ろしいものである、次第に無視されても何も思わなくなった。それどころか無視されているのも一種の表現であり、繋がりだよな、と勝手に解釈し、無視されるという行為が楽しみにさえなってしまった……僕はマゾの気でもあったのだろうか。でもまあ、彼女は間違いなくサドである。なかなか僕とはお似合いではなかろうか……なんてくだらん妄想をしていると、またヒソヒソされる。
だが、今日は彼女の返事をもらった。大きな進歩ではないか。彼女はほんの少しでも、僕に返事をするに足りた、という認識を持ってくれたのだろう。やっぱり嬉しい。明日からの学校生活が、少しの彩りを得ることができる気がした。僕はうーんと背筋を延ばし、帰路をゆっくりと踏みしめた。
僭越ながら、僕のことを少し語らせてもらおうと思う。
僕は、どこにでもいる一生徒だ。毒にも薬にもならない、空気のような存在。
友達もそこそこいるし、勉強もそこそこできる。他人から見ても、ひどく扱いやすく便利な人間だなあ、と認識されていると思う。鏡で見たときの自分の容姿も、飛び抜けてかっこいいとは絶対言えないけど、人を不快にするものではないと自負している。
そして幼少の頃に劇的なトラウマもなければ、心躍る冒険譚もない。まったく持ってツマラナイ平々凡々な人生だと総括できる。
しかし、僕はそれを苦だと思ったことはない。自分の身の丈、可能不可能のラインを十分に理解しているつもりだからだ。大人しく、用心深く、周りの環境にうまく適応するよう生きている。昆虫が捕食されないため擬態するように。そして、これから先もそのように生きるだろう。
でも……それは、少しばかり臆病な生き方ではないかと、この頃思うようになった。
青春という決して戻らない今この瞬間を、自分はただ無益で保守的に消費しているだけではないかと。周りの生徒たちを見れば、好きな人に自分を知ってもらいたいと必死にアピールしていたり、あるいは気心の知れた親友たちと馬鹿騒ぎする。
まさしく青春の、全身を込めた謳歌だ。
僕だってもちろん健全な一学生、友人と遊んだり、好きな人に思いを寄せることだってあった。しかし、僕はどうしてもそれに全身全霊を掛けて没入することはできなかった。なぜなら、もう一人の、自分のことを見つめるひどく冷めた自分がいたからだ。こんなことは無意味だと、怜悧な思考で自分を断ずるもう一人の僕の声。
その声のせいで、僕はどこにいても茫漠とした孤独を得た。常に他人に囲まれていたはずなのに。
自分の心中を推察するなら、その原因も朧げには掴める。
僕はさして取り得のない器用貧乏、無個性であると自分を決め付け、ガチガチの鋳型に嵌めて生きている。
言葉を変えれば、そういう風に無個性を『演じて』生きるのがふさわしいと思っている。友達との関係も、好きな女子への募りも、幾多の感情すべてが、僕が主役の劇で演じているワンシーンの一つに過ぎないという、他人事のような奇妙な客観性に囚われている。
だからこそ、僕は学校生活という劇を演じることはできてもそれは台本を朗読しているようなもので、本心の感情に没入できず、こんなにも冷めているのだ、と拙い自己解釈をする。
とある偉人はこんな名言を残したらしい。
『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にある』と。
僕は最近になって、それを深く意識するようになった。