水晶少女
彼女はそこで視線を机に下ろし、一呼吸零す。そして再び視線を僕に合わせ、
「要するにこういうこと。私は、人の醜さを察知するのは長けているけれど、人の美しさを理解できない、下種で醜い人間……針女とはよく言ったものね。私を形容するにこれほどふさわしい言葉はない。針で全身を纏って、優しさで触れてくれる人を傷つけることしかできない醜悪な女」
彼女はそこまで言い終えると、自嘲的な表情で、
「分かったでしょう? わたしの心の中が。汚濁で溢れきっている心が」
僕は彼女の言葉を一言一言吟味した。ゆっくりと理解できるよう心中で噛み締めた。そして、口を開いた。
「分かったよ。君の心は、どこも汚れきっていないものだと」
「……え?」
「人の優しさや温かさを理解できない、そう君は言った。でも、それは違う。君は知らないふりをしているだけだ。そして、無意識にそれを求めている」
「そんなこと」
「ならなぜ小説を読むんだ? 君は言ったね。小説が好きなのは人の思考や感情を体験できるから、と。そして、こうも言った。人の心が綺麗に綴られている文章が好きだ、と」
僕は一呼吸を置き、
「それは君の、人の綺麗な心を知りたい、という感情じゃないのか? 人の心の動きを描く物語に、自分の希望を投射しているのだと」
……あるいは、クラスメイトにあだ名を付けることだってそうだ。
愛称を付けて、自分の中で親しみやすい存在にする。それは彼女が人との繋がりを求めている、と僕は解釈したい。
さらに……僕は思い出す。放課後の教室で一人小説を読む彼女の姿。あの美しい空間には、優しさと温かさだけが満ち溢れていた。どんな薄汚い感情も漂わせず、彼女の無垢な心象だけが。
「そして君は本当はもう知っているはずだ。物語を愛している君なら、人の心の優しさを。温かさを。何より……人の汚れを理解できる人間に、美しさを理解できないはずはない」
彼女はかぶりを振った。
「理解できないわ。私には、人の醜さしか見えない。そういう世界しか、私の眼前には広がっていないの」
「なら、僕が君の眼になろう」
「……」
「君の世界には醜さしか見えないのなら、僕という存在を通して世界を見てくれ。君に似ている僕なら、君の痛みを分かち合うことができる。そして、僕の見える世界で君を癒すことができる」
「でもそれでは、あなたは私にとって都合のいい存在にしか……」
「そんなことはないよ。言っただろ、僕は純粋に君が知りたいだけだって。それで十分なんだ。君が僕に心を預けてくれるだけで、僕は満足なんだよ」
彼女は両手のこぶしをスカートの上で握り、唇をぎゅっと結んだ。沸き立つ感情を強く押さえ込んだ様子で、ぼくの問いかけに応じることはなかった。
僕はそれでよかった。今すぐ答えられるほど、簡単なものではないと思うから。
そして僕は教室を出、廊下に向かった。彼女の壊されたロッカーの中から、あるものを持ってくる。再び僕は彼女の前に立った。
「ごめん、もう一つだけ、言わせてくれ」
僕は手に持った、ボロボロのハードカバーの表紙を彼女に見せた。
「君は、小説を悼んでいない。自分にとっての半身であり、どこまでも信頼していたはずの相棒を失って、何も思わなかった、なんてことを僕は絶対信じないよ」
彼女はじっと、かつて小説だったものを見ていた。
「辛いことがあったら泣けばいい。悔しいことがあったら怒ればいい」
彼女はおずおずと、僕の手から小説の表紙を受け取った。
「それは人間にとって当然の機能で、それを損なうのは……あまりに、苦しいことだ」
そして彼女は慈しむように指先で表紙を撫でた。
そこにある、自分の思い出を掬い取ろうかのように。
「……うん」
彼女の瞳から、一滴の涙が零れる。そして、堰を切ったように溢れ、続いた。
彼女の頬に水の滴が伝う。ぽた、ぽたと机に染みを作る。それは、どこまでも尊い真珠を思わせた。
決して彼女は声を大きく上げなかった。手を口に当て、押さえ込めるように、しかしそれでも溢れてしまうかのように、かすかな嗚咽と、わずかな涙を流した。
「……ごめん……守ってあげられなくて……本当に……ごめんなさい……」
小説の表紙を優しく自分の胸に抱きしめ、ただ彼女は泣いた。
僕は思う。今の彼女こそ真実の姿だと。
大切な小説を胸に抱き涙を零す彼女に、針なんてどこにもない。
どこまでも透明で、だからこそ孤独という結果しか得られなかった女の子。
僕にとってそれは、この世にまたとない美しいものの結晶だった。
僕は待った。彼女の心のわだかまりがすべて流れ去るまで、僕はずっと見守った。そうすることが、僕に課せられた絶対に遵守すべきものだと、強く自分を律して。
そして、彼女はかすかに顔を上げた。両目は赤くなり、頬には涙の跡が残っている。
「……少し……時間をくれない? 今の私には、結論を出すことなんて……できそうも、ないの」
僕は、彼女の潤んだ瞳をしっかりと受け止めた。
「ああ、待つ。いくらでも待つよ。ゆっくり考えればいい。君の望むままでいいんだ」
「うん……ありが、とう」
そして僕はハンカチを彼女に渡し、教室を去った。
一人彼女を教室に残していくことに一抹の不安を覚えたが、大丈夫だろうと僕は判断した。
もう僕はすべてを語り尽くしたし、彼女もまたすべてを語り尽くした。
これ以上語る言葉はない。ここから先は彼女自身の心の中で決めることだ。
……ちなみに、僕は次の日古文の宿題を忘れて、こってり岡崎先生に絞られた、というオチがつく。