水晶少女
もう僕は先生の手伝いの帰りに教室に寄ることはなくなったし、彼女と別れの挨拶をすることもなくなった。僕には彼女がとても遠い存在に思えた。もう一生交わることもない存在なのだろうかと、そう思い始めていた。
「あんた、なんなのよ! いつも人を見下すような態度ばっかして! 調子こいてんじゃねえよ!」
いきなり女子生徒の金切り声が聞こえた。帰りのホームルーム終了直後、放課後のざわめき声の間で、一層強く教室に響いた。
教室中の視線が、只中へと集まる。
「自分が特別な人間だと思い上がってんじゃないの!? ちょっと顔が良いからって、人を馬鹿にしていいわけねえだろっ!」
彼女のブレザーの胸倉を、いつか彼女が『厚顔の下の無恥』とあだ名を付けた、大見さんが掴んでいた。
染めた茶髪を振り乱し、凄まじい剣幕で、彼女を怒鳴りつけている。よく見ると大見さんの目にはうっすらと涙が浮かび、目元の化粧を汚している。かなり鬼気迫った印象だった。
しかしそんな大見さんの怒りを一身に受ける彼女はまったく動じず、ただ鋭い目つきで自分を掴んでいる大見さんを睨みつけていた。
そんな二人の修羅場に、一人の男子生徒が間に入った。このクラスのリーダー役の男子生徒だった。
「まあ、落ち着け大見。こいつはそういう奴なんだから、怒ってもしょうがねえ。ほら、みんな見てんだろ」
彼は大見さんの手を優しく掴み、そのまま彼女から引き剥がした。
大見さんはそれを契機に、大きく泣き出してしまった。
「……とりあえず向こうで涙拭け」
彼はハンドタオルを大見さんに渡し、肩を優しく抱き、廊下の方へと付き添った。その後ろに、大見さんの友人の女子生徒数人が、一緒についていった。
彼女は掴まれていた胸元を軽く整えると、そのまま小説を取り出し、読み始めた。
今起きたことなどまるで取るに足らないことのように。
しばらくして、リーダー役の男子生徒が教室に戻ってきた。彼の表情にははっきりと疲れが浮かんでいた。そして、僕の席の近くまでやってきたので、僕は彼に小さく声を掛けた。
「大見さん、大丈夫だった?」
彼は僕の顔を見て、面倒くさそうにため息をつき、
「ん、大丈夫だろ。今は友達だってついてるしな。野郎がヘタに慰めるより、気心の知れた友人の方が適任だろうよ」
「……何があったのか、訊いてもいい?」
「大見が泣きながら話すにゃ、針女に一緒に遊ばないか、と誘ったらしい。んで、ひどく冷たくあしらわれて、ブチっときちまったんだとさ。そんであの顛末」
「……そう」
彼は軽く舌打ちし、彼女の方に視線を寄越す。
「まったく、二年になってからはあんまりこういうことなかったんだけどな。やっぱり、起きちまうか」
「君は去年、彼女と同じクラスだったの?」
「そう、針女と同じクラスだったよ。毎月誰か爆発してた。針女絡みでさ。皆、あいつの本性知らねえし、見てくれはえらく可愛いからよ。俺も当事者として渦中に突っ込んだこともあったよ。でもな、二年になって、あいつのことも知れ渡っているから、まあ迂闊に近づくアホはいねえだろうと踏んでたんだが」
僕はドキリとした。思いっきり顔に出たのだろう、彼は僕を見てにやりと笑い、
「友のよしみで教えてやるが、お前のことも最近噂になってるぜ。放課後の二人きりの教室で、針女にナンパしてる命知らずがいるってよ」
僕は恥ずかしくなり、顔が火照ってくるのを自覚した。
人に見られたのか。そりゃ放課後だって丸っきり人がいなくなるわけでもなかろうし。
でも、僕は彼女の最後の言葉を思い出し、今度は陰鬱な気分になった。やはり彼女に刺された針の痛みは、何度忘れようと思うも、決して忘れることはできない。
「んん? なんだ。そのツラってことは、お前もやっぱ針女に刺されたのか。ふーん。そうだったのか。ちょっと意外だね」
「え? 意外では、ないと思うけど……」
「いや、お前と針女の相性、結構良いんじゃねえか、と思ってたんだけどね。お前って、付き合いやすいし、いつも誰に対しても笑顔を振りまいてるけどよ、本音ではすごく冷めてるように思えるんだよ。そういうところって、針女に似てる感じがあったからさ」
僕は驚いた。僕は自分が思っていた以上に、人に性根を見抜かれていたらしい。
「でもまあ、お前でも駄目だったか。ホント高嶺のお姫さんだわな。あいつのお眼鏡に叶う王子は、いったいいつ出てくんのかね」
そんじゃ、と言い残して彼は僕の席から去っていった。
僕は彼女を見る。彼女の姿。堅牢な盾を装備した兵士のように、隙を一切見せない完全な防御を纏ったその姿。
あんな人の怒りを受けてさえ、彼女の佇まいにはどこにも傷が見当たらない。完膚なきまでに美しすぎて、それはもはや僕らとは異なる世界の存在に思える。
僕は彼女の片鱗にほんのわずかでも触れたと思っていた。しかしそれは僕の作り出した幻想だったのだろうか。それを確認しようにも、僕は彼女の前に再び立つ勇気はなかった。それがとても情けなくて悔しかった。