水晶少女
「やあ」
僕は声を掛けた。
彼女はゆっくりと校庭から僕の方へと視線を移した。彼女の瞳は鋭く、僕を射抜くようだった。それは普段の、人々の中にいる彼女の様子を思い起こさせる。
「待っていたわ」
彼女はいつも以上にはっきりと声を発した。
「待っていた? 僕を?」
「そうよ。今日はあなたが来るだろうと思って」
「……そう」
彼女が僕を待っていた。それだけの言葉を額面通り受け取るなら、僕は能天気に浮かれでもしただろう。でも、彼女の鋭い視線を受ければ、容易に分かる。
きっとこの後の展開は、僕にとって喜ばしいものではないと。
「何か、話でもあるのかな」
「あるわ」
「……どんな、話だい」
彼女は鬱陶しげに髪を指先でかきあげ、形のいい耳を露わにした。
「あなたは、私と友達になりたい、と言ったわよね」
「ああ、言ったよ」
「それは、どういう理由で?」
理由? 友達になりたいという感情に、理由なんてあるのか。
「分からない。理由なんて必要かな。ただ、普通に君と友達になりたい、と思っただけだよ」
「私には理由が分かる」
「え?」
「端的に言えば、同化よ」
「同化?」
「あなたは本質的に私と似通った部分がある。いつも一つ上の視線から他人を冷めた目で見つめ、潜在的な孤独を持っている、という部分。違うのは他人と迎合するか否か」
「……なんで、そんなことが分かる?」
「普段のあなたの様子を見ていれば分かるわ。いつも他人に対して笑いかけ、誰にも不快な感覚を与えることはない。そういう生き方ができる人間は、よほど健全な人間性を持っているか、あるいは他人を見下しているか、の二つ。最初私は、あなたのことをとても達観した類の人間だと思っていた。でもそれは誤りだったと、この一月あなたと話していて分かった」
そして彼女は一呼吸置き、
「あなたはジレンマを持っていた。集団に迎合するか、あるいは孤高に生きるか。そしてどちらも選べない中途半端な生き方しかできなかった。そういう閉塞感は、私という存在を知って、緩和された。私は、あなたにとって理想の一つの姿として見えただろうから」
僕は、何も言い返せなかった。
「そして、あなたは私に憧れを見出した。私のようになりたい、と。憧れは、さらに同化という感情も想起した。私なら、自分の鬱屈した気持ちも分かってくれるだろうと。自分の持っている孤独を、私なら共に分かち合うことができる、と」
「そんなことは……」
「あるわ。ならなぜ毎週教室に来るの? あなたには友人と呼べる人間が何人もいるでしょう。その中に本当に心を通じ合える親友がいるなら、あなたの孤独を分かち合うことだってできたはず。この一月、私は先週を除いてあなたに一切質問をしなかった。私からあなたに求めたものなんて何一つなかった。そんなつまらない人間に拘っていたのは、なぜかしら。そしてあなたは最後に言った。私を知りたいと。その瞬間、私は確信したわ。あなたは私という存在と、同化したいのだと」
僕には分かっていた。彼女の言葉は何一つとして間違っていないのだと。
だけど、僕は言わずにはいられなかった。
「同化の、何が悪い? 自分の心の中を一緒に共有したいという感情は、間違っているのか」
彼女は薄く、冷ややかに笑う。
彼女の辛辣な言葉を受けて今僕は深く動揺しているが、頭の隅の冷静な部分で初めて彼女の笑みを見たな、と思う。願わくは、もっと幸せな笑みを見たかった。
「間違いなんて一言も言っていないわ。普通の人にとっては当たり前の感情だと私も思う。ただ、私にとってそれは鬱陶しいものにしか思えないだけ。私は一人で生きていくことに満足しているの。誰の生温い感情も、必要ないのよ」
彼女の姿が、僕には同じ人間のように思えなかった。どこか別の世界の存在だと。
あの大人しい文学少女は、どこにいったのだろう。これが、彼女の正体だと言うのか。
「私の話は以上よ」
彼女はそう結んで、鞄を肩に掛けなおし、僕の脇を通って、教室から去ろうとした。
反射的に僕は彼女の手首を掴んだ。初めて触れた彼女の手首は小枝のようにか細く、強く握ったら簡単に折れてしまいそうな危うさだった。
「……なにかしら」
彼女は眉根を寄せ、冷めた瞳で僕を見た。僕はその瞳に射竦められながらも、
「待って。少しくらいは……僕の話を聞いてくれないか」
「あなたの話? それは弁解かしら。それとも言い訳? まあどちらでもいいわ。興味ないから。私はあなたと議論を戦わせようと思ったわけじゃないの。手を離して」
僕は唇を強く結び、奥歯をギリ、と擦る。ああ、確かに彼女の言葉は正鵠を射ている。彼女の言葉から思いつく反論なんて、すべて見苦しい言い訳と惨めな弁解に過ぎない。でも、彼女の手首を離すことはできない。もし離してしまったら、彼女は二度と僕の届かない場所に行ってしまうと分かるから。
感情が強く篭っているだろう僕の瞳と、決して離さない僕の手を交互に見、彼女はふ、と小さくため息を零す。
「あなたには失望した。私の言葉を理解できるくらいには頭が回る人だと思ったけれど。分からないようだからもっとシンプルな言葉に変えてあげる」
「……」
「今のあなたは、孤独で根暗な女だけど、自分を慰められるからその女を自分の物にしようと思い上がった愚かな男。他の男とは違う特別な自分なら、可哀想な彼女を助けてあげられると思ったヒーロー気取り」
「ちが……!」
「まったく違わないわ。自分の有様を見なさい。あなたが今何をしているかを」
僕は見る。僕の手は彼女のほっそりとした手首を掴んでいる。最初に掴んだときより遥かに強く……自分の行為の愚かさをようやく僕は理解する。僕は目を瞑り、彼女の手首をゆっくり離した。
目を伏せ、言葉を失った僕に、彼女は言った。
「ヒーローを気取りたいなら他を当たりなさい。私はあなたを満たすことなんてできないのだから」
憐れむように彼女は僕を見て、そして黒髪を翻しながら背を向ける。僕の前から今度こそ立ち去ろうとしていた。
「……そんな生き方は、辛くないのか」
彼女の後姿に、僕は見苦しくもそう問いかけた。
「自分ひとりで何もかも背負いこむなんて、そんな生き方は、寂しくないのかよ」
彼女は足を止め、憂いを帯びた瞳をこちらに向けた。
「こうする生き方しか、私にはできないのよ」
そう静かに言って、最後に、
「もう、二度と私には関わらないで」
言い残し、決して振り返ることなく真っ直ぐに教室から消えていった。
僕は、自分の心にぽっかりと大きな穴が開いたように感じた。
しんと静まり返った教室に、雨音だけが聞こえる……これだから、雨の日は嫌いなんだ。いい思い出がない。心の空洞を沈めるように響く雨粒の音が、僕にとってひどく耳障りだった。