水晶少女
しばらく彼女が小説のページを捲るだけの音が鳴る、静かな時間が流れた。
何も言葉を語らずとも、しかし僕は彼女と同じ世界を共有している、という優しい実感があった。勝手な押し付けかもしれないけど、彼女も同じ気持ちを持ってくれたら僕は嬉しいものだ。
……だけど、僕の心の中に、微熱があった。それは彼女を初めてこの目に映したときから小さく灯された熱。彼女と何度もこうして放課後に会うたび、この熱がどんどん大きくなっていく感覚があった。その熱の正体。それは彼女の心を知ってみたいという僕自身の願望だろう。
そして今、この瞬間その熱が訴える。もう少し前に進んでみろと。彼女の心の片鱗に触れてみろ、と。だから、彼女が僕を拒否してしまうかもしれないと分かっていながら、躊躇わず口を開いた。
「……これからする質問、君にとってはとても不快なものかもしれない。もし答えたくなければ、無視してもらっても全然かまわない。いいかな?」
彼女は再び小説から僕に視線を合わせる。そして、
「お好きなように」
そう呟いた。僕は一呼吸置き、彼女の淡い視線をまっすぐに受け止めながら、
「君は……自分が、人に注目されている人間だって、認識してる?」
「どういう意味かしら」
「噂されるような存在だってこと」
僕の言葉に彼女はピクリとも整った顔を崩さず、
「知っているわ。私の噂話なんて、腐るほどあるでしょうね」
知っているのか。知っていて、君は。僕は心中でそう呟きながら、
「……そう。もう少し、訊いていいかな」
「どうぞ」
「一年のとき、有名なバスケ部の先輩に告られたけど、あっさりと断って、更にひどい言葉を浴びせて彼の心もめちゃくちゃにした、っていう噂は」
「……」
「本当、なの?」
彼女は僕を見つめたまま、
「先輩に告白されて断ったのは本当。ひどい言葉は、分からないわ。私なりの言葉で先輩の好意を固辞しただけ。それで先輩の心がめちゃくちゃになった、というのは、私からすれば知りようもないことね」
僕は驚きで返答に窮した。彼女自身が口にしたということは、真実だったのか。噂は当たっていた、ということになる。僕は自分の心臓がどくん、と鼓動するのを意識した。
でも、詳細が分からない。先輩に非があるのか、彼女に非があるのか。具体的にどんな言葉で先輩を拒否したのか、ということを訊きたい。
しかしそれは僕の踏み込んでいい領分だろうか。彼女と先輩の間だけで共有するべきことのはずだ。
「……そうか」
僕のその呟きのあと、教室に空疎さが充満した。
僕はそれを振り切るように何か続けようと思ったけど、しかし伝えるべき言葉が何も浮かばなかった。先に進んでみたいと必死に望んでおきながら、しかし僕は無様にもその場に足踏みした。
「私から、あなたに訊いていいかしら」
彼女の澄んだ声が教室に響く。僕は驚いた。彼女から僕への質問? そんなことは初めてではないだろうか。
「うん、いいよ」
「なぜ、今先輩との噂を私に訊いたの?」
「え?」
「なぜ、この前小説のどこが好きかなんて訊いたの?」
「……」
「なぜ、毎週教室に来るの?」
矢継ぎ早に浴びせられる彼女の質問。
彼女の声には何も色がないはずなのに、しかしそれはどこか僕を詰問する口調に感じられた。
「教えて」
最後にそう言い、彼女は口を閉じた。僕は唾を嚥下した。
彼女が僕にそう尋ねることは、予期していた。毎週わざわざ顔を合わせにくるクラスメイトの行動理由、それを知りたいと思うのは当然の発想だ。
僕は静かに息を吐き、そして、
「君のことが、知りたいんだ」
彼女の流麗な眉が、小さく反応する。目がスッと細くなった。僕の言葉の真意を測るように。
「知りたい?」
僕は、前より強い声で、
「そう。僕は……君と友達に、なりたいんだよ」
すべては、ここに帰結するのだ。毎日、下校のときに彼女に別れの声を掛けるのも。夕暮れの教室で彼女に会うのも。小説のことを訊くのも、噂について訊くのも。
「……分かったわ」
そう呟き、彼女は席を立った。
通学鞄に小説を入れ、そして迷うこと無くドアへと向かっていく。
「帰るの?」
僕の声に一切応じることもなく、彼女はそのままドアを開け、タンタンと上履きを鳴らしながら去っていった。
彼女の返答を聞けなかったことは、僕に迷子になった幼児のような寂しさをもたらした。