水晶少女
窓の外から、部活に励む生徒の掛け声が聞こえてくる。
校庭に視線を向けると、野球部の面々がノックをしていた。
新年度が始まってそろそろ二ヶ月。入部したばかりで、先輩の檄にぎこちなくも、必死に応じている丸刈りの一年生たちがいる。声を大きく出し、そして体全体を使ってノックを受けるその姿は、まさしく全身全霊と言えた。
何かに全身全霊を込めて打ち込める人間に対して、僕は憧憬の念に囚われる。部活に入る機会はいくらでもあったが、しかし僕は帰宅部を貫いてきた。きっと部活に入っても、すぐに脱落するか、あるいは幽霊部員になる、というのは分かりきっていたことだからだ。情熱という原始的で重要な感情を、僕は幼い頃どこかに置き去りにして成長してきてしまった。
あるのはほのかな熱の残滓だけ。
「今日は何も話さないのね」
グラウンドを見ながら思索に耽っていた僕の耳に、かすかな声が届いた。
僕は驚いて、彼女の方を向いた。視線を小説に注ぎ、いつもと変わらない様子である……もしかして、彼女から僕に声を掛けてきた? そんな馬鹿な、と思いつつも、間違いなく彼女の声が聞こえたのだ。
「何か話していい? 読書の邪魔にならないかな」
「別にどっちでも。あなた、暇そうだったから」
暇といえば暇である。
でも、読書よりも僕との会話を優先させてくれた彼女に、僕は感動してしまった。しかし、急に何か話そうと思っても、話題が思い浮かばない。なので、横着だがついさっき聞いた話を引用させてもらうことにする。
「今日さ。うちのクラスの大久保君が、好きな子にアタックしたんだよ。ずっと憧れてたらしい。前から何回か一緒に遊んだり、ちょくちょくメールし合ったりする仲にまで持ってきて、もう告白の準備は万端、後は女の子からOKの返事を貰うだけって所だったんだって。そしてついに、女の子を屋上に呼び出して、心をこめた愛の気持ちを告げたんだ。『貴方の心の扉を開きたい。ノックをする手つきで』そう言ったらしい。相手は少しクールな子だったらしくてね。大久保君、中々詩人だよ。でもね、そう告白しても、女の子はどこか白けた表情だったみたい。そして女の子はこう言ったんだ。『大久保君、わたしの心をノックするのは勝手だけど、まずは自分の股間をノックした方がいいと思うよ』。大久保君、緊張のあまりズボンのファスナー閉め忘れていたんだ。結局あまりに恥ずかしくて、そのまま逃げ出してきたんだってさ」
なんとも惨めな話で、他人に吹聴するものではないが、大久保君本人も笑って僕たちに話していたから大丈夫だろう。
しかし彼女は、大久保君会心の悲哀物語にも、ノーリアクションだった。視線を小説に注いでいるまま。僕は沈黙に圧され思いっきり気まずくなる。
……もしかしてネタを外したか。若干シモ系だったし。年頃の繊細な文学少女には下品な話題だったかも。
沈黙という名の妖精が、僕らの間をひらひら漂う。そして彼女はふと、
「山に躓かずして垤に躓く」
そう呟いた。
「は?」
「道化の体現者のやりそうなことね」
「へ?」
僕は彼女から唐突に放たれた二つのワードを理解できなかった。
やまにつまずかずしてありづかにつまずく? どうけのたいげんしゃ?
「……ごめん。間違いなく僕の頭が悪いせいなんだろうけど、君の言った言葉が理解できない」
彼女は間髪入れず応じる。
「ことわざと、大久保のあだ名」
山に躓かずしてナンタラカンタラが、大久保君の悲しい物語を表したことわざで、道化の体現者が大久保君のあだ名、ということか?
いきなり難しい単語をずらずら並べられて僕はとても混乱したが、たぶんこれで間違っていないだろう。しかし大久保君が『道化の体現者』などと厳めしいあだ名で呼ばれているのを聞いたことがない。彼女が独自で付けたあだ名だろうか。
「もしかして君、色んな人にあだ名付けてない?」
なんとなくそんな予感がしたので、訊いてみた。
「……」
「例えば、あのいつも化粧が厚い大見さんとか」
「厚顔の下の無恥」
「いつも能天気で明るい宮野さんとか」
「最果てのお花畑の踏破者」
すごい。適当に名前を挙げたのに、スラスラ出てくる。センスは少々…女子にしてはアレな感じだけど。
それにしても彼女は普段何気ない顔をして、生徒一人一人をしっかり観察していた、ということか。意外だった。
しかし、僕はあることに気付いてしまった。
「僕にもあだ名、付けてたりして……」
恐る恐る訊いてみた。
彼女は僕の質問に、小さな顎に指を添え俯き、考え込む様子を見せた。
「……なんだか、あなたのあだ名は思い浮かばないわ」
「え。そうなの」
「あなたの普段の様子は、無個性だから、かな」
安心半分、寂しさ半分、そんな気分だった。