冥帝の万華鏡
中年の男性が、低い笑い声を上げながらそう叫んだ。その男性の声に、少女はより一層顔をしかめ、そして、俺の側へとゆっくりと歩み寄って言った。
「あなた、さっきまで私が居た方に走って逃げなさい。今ならまだ、逃げられる。」
そう促し、俺の脇を抜けながら優しく俺の背中を押した。
「おやおや、銀の娘。なかなかに優しいね。」
俺たちのそんな様子を眺めていた中年の男性はさも面白げに嗤っていた。
「おい、ちょっと待てよ。一体どういう事なんだよ。逃げろって、あいつらやばいのか?」
一方、俺はと言うと、全くと言って良いほど状況が把握しきれず、逃げるよう促してくれた彼女に半ば食って掛かっていた。
「うるさい、良いから逃げろ!」
わめいていた俺を彼女は女の子の力とは思えないほどの勢いで押し、俺はその勢いのまま、地面に尻餅を付いた。それと同時に、彼女は駆け出し、彼女が動くのと同時に前に出てきた中年男性の取り巻きの一人に蹴りを繰り出した。
「おやおや、聞き分けの悪い子だ。捕らえろ!なんとしてもだ!」
会いも変わらず悠々とした話方をする中年男性は、彼の取り巻きであろう男達にそう叫ぶと、自身は後ろのほうへと下がり、彼女と男達の攻防を観戦していた。
そこまで来て、ようやく俺の頭の中の整理が付いた。良くは分からないが、どうやら彼女はあの男達に追われていて、あの男達は彼女を捕まえようとしているらしい。なら、俺の取るべき行動なんてもう決まってるようなものだ。
彼女の動きは綺麗だった。彼女を捕まえようと伸ばされる手を軽いステップでよけ、隙を見つけては男達に蹴りを叩き込んでいる。しかし、それはどこか危なげでもあった。彼女は男達全員を見ているわけではなかった。彼女は自分に向かってくる攻撃や手に集中して動いていた。そのため、攻撃の入ってこない彼女の背後は危険すぎるほど無警戒であった。それに、男達も気が付いたのだろう。男の一人が攻撃から抜け、ゆっくりと彼女の後ろに回りこもうとしていた。
危ない。
反射的に、そう叫びそうになった。俺はそう叫びたい衝動を必死に押さえ、彼女の後ろに回りこみ、不意を突こうと俺に対して無防備な背を男が向けるまで待ち、そして、向けた瞬間全力で蹴りを叩き込んだ。
運動不足の高校生の蹴りなど、十分に鍛えられた人間には然したるダメージにはならないだろう。だが、不意を付いた一撃なら、撃退することは無理でも相手の出鼻をくじくぐらいは出来るはずだ。
俺の目論見どおり、俺に不意打ちを受けた男は、そのままバランスを崩し、前で少女を捕まえようと躍起になっていた男達の方へと倒れこんだ。当然、前の男達もその男に巻き込まれ、六人の内三人がその場に倒れた。
「あ、あなた!」
少女は、逃げずに手を出した俺に非難の声を上げた。しかし俺はそんな彼女お構いなく彼女に向けて、俺は出来る限りの笑顔を向けながら言い放った。
「悪いな、せっかく逃がそうとしてくれたのに。でもな、女の子一人置いて逃げるなんてかっこ悪い挙句に、後味最悪だろ。だったら、たとえ後で後悔することになってもだ、ここで女の子と守る為に戦った方が絶対に良い!」
闇に包まれだした路地裏に手を叩く乾いた音が響き渡る。
「いやいや、少年。その覚悟、その意思、実に見事なものだ。それに、決断としては賢明だったと思うよ。だがまあ、君は生き残ると言う選択肢を自分から放棄してしまったがね・・・」
あの中年男性が、あいも変わらずに低い笑い声を上げた。それと同時、中年男性の向かい側、つまり俺と彼女の背後からやはり黒い礼服に身を包んだ男が五人姿を現した。
「いやいや、軽率に逃げ出してくれれば、少年、君を人質に銀の娘と交渉が出来たのだがね・・・」
「っ!」
その姿に、俺は息を呑んだ。その男達の手には、刑事ドラマで見るようなハンドガン、銃が握られていたからだ。
「ここまで、手段を選ばないとはね・・・」
少女が再び忌々しそうな声を中年男性に向ける。
「私たちの方ももうあまり時間が無くてね。上の方の人間は気が短いのだよ。」
中年の男性は、そこで一度言葉を切り、タバコに火をつけた。そうして、大きく吸い込んだ煙を吐きだし、再び口を開いた。
「さあ、もう一度だけチャンスを上げようか。私としても、出来れば君を無傷で手に入れたいのだよ。君がもし今私たちと共に来てくれると言うのならば、その少年にも危害は加えない。約束しよう。私はこれでも嘘はつかないのだよ。信用は無いかもしれないがね。」
薄ら笑いを浮かべながら中年男性は再びタバコを口にくわえた。
その男性の言葉に反応したのだろう。少女は首を小さく動かし俺のほうに眼をやる。俺のことが心配なのかもしれない。
「俺のことなんて気にするな、なんだったら、俺を楯にして逃げても――」
そこまで俺が口にした時だった。空気を引き裂くような音が、俺の脇を掠めて行った。恐る恐る掠めた脇に目をやる。そには、何かに貫かれた穴があり、真っ直ぐ後ろに振り返れば、小さく煙を吐き出す銃口があった。
撃たれた。
あまりにも非日常的過ぎて直ぐには理解できなかった。だが、それは直ぐに恐怖と共に俺の頭の中を駆け巡った。悲鳴など出ない、突然足に力が入らなくなり、俺は地面に膝を付いた。そんな俺に向けて、中年の男性は煙を吐き出しながら冷酷に告げた。
「少年、今私は彼女に話しているのだよ。君ではないのだ。学校で習わなかったのかね、私語は慎み給え、と。」
「無警告で撃つのね。」
「それが警告さ。」
彼女と中年の男性、その二人の声が真っ白になった俺の頭の中に響いていた。
「もし、嫌だと言ったら。」
「君も、ベタな事を聞くのだね。無論、撃つさ。君も例外ではないよ。上からの命令では、最悪君の脳さえ生きていれば良いとの事だったからね。手足に鉛玉を打ち込んでも特に咎められはしないのだよ。ああ、無論少年の方には可哀想だが死んでもらうよ。流石に、チャッカまで見せてしまった人間を何の条件も無しに生かして返すわけには行かないからね。」
中年男性の言葉は今までの中で最も冷たいものだった。男はさらに冷たく続けた。
「ああ、少年、もう喋るんじゃないよ。今度は君の体に打ち込むからね。」
状況は最悪だった。もとより、俺が逃げようが残ろうが結果は一緒だったってわけだ。このまま俺が銃を構えている男達の方に突っ込んで隙を作り、その隙に彼女が逃げおおせる。こんな作戦も思いついたが、口を開くことを制限されているこの状況では彼女にそれを伝えられないし、彼女が了承するとも思えなかった。じゃあ、どうすれば良いのだろう。この状況を打開する術は無いだろうか。必死に頭を回転させる。しかし、出てくるのは大して役に立ちそうも無い知識ばかりだ。
詰みかも知れない。そんな考えが頭をよぎりだした時、俺の頭の中にあの澄んだ声が響き渡った。
(今私は、ある特別なことをしてあなたの頭に直接語りかけています。彼らに勘付かれると不味いですので、出来るだけ顔に出さないようお願いします。)
その声はそう前置きをすると、さらに言葉を続けた。