冥帝の万華鏡
当然、住宅街の方とは打って変わり幅の広い道路は数本ではあるが敷かれ、その中で最も広い幅を持つ道路は、隣の隣にある大きな街に続いている。
その大通りに面しているのが件のデパートである。そしてその前、その大通りを横断する為の信号が異様に長いのである。東京とか大阪とか大都市と呼ばれる場所の信号全てがこんな感じだとしたら気が滅入るなと、そのやたらと長い信号を待つ間に考えをめぐらせる。特に意味など無いが、多少の暇つぶしにはなるだろう。
そんな、のどかな夕暮れ時だった。俺の耳に耳を劈くようなブレーキ音が響き渡った。とっさに音の方へ目を向ける。強烈なブレーキ音を立てながら半分スリップしかけた乗用車。その車に今にも追突しそうになりながらブレーキをかける様子の微塵も無い車。そして、その二台の正面に、幼い子供が状況を理解できないのか立ちすくんでいた。
無我夢中とはこういうことをいうのだろうか。俺が最後に聞いた音は、女性の祈るような痛烈な叫び声と、自分の体の拉げる音だった。
痛い?
いや、熱かった。ものすごく、耐え難いほどに身体が熱かった。そして、とても寒かった。凍えるほどに寒かった。
ただ苦しく、ただ辛かった。
ぼんやりと周りの景色を映し出すだけになってしまった僕の水晶体は、拉げて潰れた車体と、俺の周りを囲む何人もの人がいることだけを映像として映し出した。
もはや雑音しかもたらさなくなった耳は、女性の悲鳴、嘆き、男性の怒号が入り混じった不愉快極まりない音を俺の頭に響かせ続けていた。
そう言えば、人は死ぬ瞬間、周りの全てがスローモーションに見えるなんて話を聞いたことがある。もしかしたらこれがそうなのかもしれない。
しだいに視界は白く霞み、音はしだいに遠くなる。
ああ、死ぬのか。
それ以外にはもう考えることも出来なかった。
ただ、心の中で、こんなに苦しくて辛いならいっそ、と何度も何度も同じ考えが巡った。
―――其は、何を望む―――
それは、今だかつて聴いたことの無いようなとても綺麗な澄んだ声だった。
その声の出所を知りたくて、もはや色彩さえも失った目で周りを見回す。すると、ぼやけた景色の中、ただ一人、純白の少女の姿だけがはっきりと映し出されていた。
少女は恐ろしい程の純白だった。純白の髪、純白の肌、純白の服。ただ唯一、その二つの瞳だけが、地獄の火焔のように真っ赤に染まっていた。
「…其は……何を…望む…」
少女は小さく口を動かし、それだけ、ただそれだけの言葉を紡ぎ出す。
俺は其れに必死に応えようとするも、もう、体は全くといって良いほど言うことを聞かなくなっていた。
だから、俺は、自分のまぶたが閉じてしまう前にこれだけは願った。
――まだ、もう少しだけでも良い、生きていたいと―――
少女の最後の言葉を聞き取る前に、俺の意識は闇に飲まれていった。
白く塗られた天井と、柔らかな光を放つ蛍光灯。それが、再び覚醒したとき初めて目に入って光景だった。
まだぼんやりとする目で辺りを軽く見まわす。部屋には誰一人としている気配がしない。漠然としか覚えてなどないものの、あれはかなり大きな事故だったように思う。普通なら家族や友人が心配そうに顔を歪めながら付きっきりで看病でもしてくれそうなものなのだが、おれの周りではそういう習慣がないらしい。
皆薄情だな、なんて物思いにふけること数秒、ふと自分の体を見て気がついた。おれの体のどこにも包帯等が巻かれていない。それどころか、体のどこも痛いとは感じないのだ。確かに俺は自分の体がひしゃげる音も光景も目にしたはずなのに。あれは、とっさの出来事に処理能力がオーバーヒートした脳が見せた錯覚だったのだろうか。それとも、おれの知らない間に、人間の医療技術はここまで進歩していたのか、そうだとすれば人類の発展は目覚ましいものがあるな、と思いをはせはしたもののこの原因には心当たりがあった。
「彼女、だよな……」
事故後のあいまいな記憶の中でも鮮明に覚えている。俺に何を望むのかと問い、この白く塗られた天井がひどく汚れて見えるほどの純白の少女。
もう一度会いたい。
これはもう純粋な好奇心の域だった。自分の知らない力を持つことに対する好奇心だった。疑問なんていくらでもある。なぜおれを助けてくれたのか、どうやって俺を助けたのか。しかし、そんな疑問なんてどうでもよかった。ただもう一度会いたい。その思いだけが強く脳裏に反芻していた。
「藤崎さん、目が覚められたんですね。」
部屋の出入り口のほうから、若い女性の声が響いてきた。
「あ、え。」
先ほどまで純白の少女のことにばかり気を取られていたおれは、不意にかけられた女性の声に情けのない声を上げる。
「あ、私は、如月といいます。あなたの担当の看護師です。」
どうやら彼女が俺の担当の看護師さんらしい。
「あ、どうも、お世話になります。」
こういった時にどういった反応を返せばよいのか分からず、ちぐはぐと応答する。これでも俺は、いまだかつて病院なるものに入院したことがないのだから慣れているはずがない。まあ、普通の人でもそうそうお世話になるような場所ではないのも事実だけど。
「ご両親も、心配なされていたんですよ。外傷はほとんどないのに一週間も寝たままで。」
「一週間…」
どうやらおれは、外傷を負わなかった代わりに相当長い時間眠り続けていたらしい。一週間眠り続けていたとすると百六十八時間か。これだけ寝れば、これまでに溜まり続けた疲労も一発回復だろう。代わりに、今の体は運動不足のせいか相当に重いという代償を受けている。長時間過ぎる睡眠時間も考えものだ。
「お体のほうは問題ないようでしたので、後は少しのリハビリで退院できますよ。」
如月さんは、笑顔でそのように語りかけてくれた。というより、おそらくこれは会話の締めくくりの言葉だろうから、俺が馬鹿なことに思考能力を注ぎ込んでいる間、如月さんはずっと語っていてくれたのだろうか。だとしたらものすごく失礼なことをしてしまったものだ。少し反省。
そうしているうちに如月さんは「お休みなさい」と笑顔で退場。再び独り残された俺は仕方がないので半分不要だと思いながらも布団に誘われるがまま夢への旅路へと旅立っていった。
そこから先はとんとん拍子だった。
まず翌日、両親と対面、プラスで友人一同のお見舞い。夕方には宮部教諭がやってきてお見舞い品と言わんばかりにたまりにたまった学校の課題を期限は延ばしておくからと頼んでもいないのに置いて行った。そしてさらに一日後、今度は事件の調査とかで刑事さん方がやんわりと入室。おぼろにしか覚えていない事故現場の状況を断片的に話した。もっとも、あの少女のことについては触れていない。あの少女は事故とは無関係だったし、とくに話す必要性も感じられなかったからだ。
さらに翌日、今度は二日前に来られなかった妹を引き連れた両親が再びやってきた。軽い冗談を交えながら軽くどつき漫才をした後、家族は早々に退散。
そしてそれから二日後、無事退院。出迎えは両親のみ、友人たちと妹は学校だ。