ミヨモノリクス ―モノローグする少女 美代の世界
九月 泥繭
夏に眠ると書いてカミンと読む。仮眠ではない。冬眠ではなく夏眠なのだ。両生類には良く見られる習性だ。この日差しの中では体表が乾燥してしまい、皮膚呼吸が出来なくなって死んでしまうから、泥の中に潜って、それはそれは小さく丸くなって、糸ほどの息抜き穴だけを残して籠もるのだ。
いつか、太陽が隠れ、雨が落ちてくるまで、何年でも眠り続ける。でも、それは何の為なのだろうか。それほど待ち続けて、一体何があるというのだろうか。彼らにとって、生きているということが、どういう意味を持っているのだろうか。
突然にこんなことを考え始める私は、確かに少し参っていた。暑さに? そう。この大気そのものが熱を孕んだ蒸し焼き地獄に、私は参っている。でも、クーラーなんて無い。シャワーを浴びすぎて、体中が皺くちゃになって、それがあまりに醜いので、もうそれも出来ない。今、私の瞳は炙った魚の目のようにブヨブヨしているのではないだろうか。何も見えない。目を閉じても何も見えない。重力がほんの少しだけ強くなっているのではないだろうか。「川井」と叫んでみる。でも、声が出たという実感が湧かない。それでも、川井はやってくる。
「あんまり冷たいものばかり召し上がりますと、腸をお悪くいたしましょ」
「腸なんてどうでもいい。私は暑いんだ体の中から」
「腸をお悪く致しますと、お体が弱ります。しばらく難儀をなさいますよ」
「もう、私は十分に難儀をしているんだ。今、この瞬間に、私が沸騰して蒸気になったら、お前の責任だ」
「それで、結構でございます」
川井のこういう言いざまには好感が持てるが、体の方がもう限界だ。暑い。公民館へ行く途中の道も暑い。
砂漠の民はあんな毛布みたいなものを被っているけれど、あれはたいへんに暑いだろう。あの人達は、直射日光を恐れているのであって、熱気を防御している訳ではないのだ。
瞼を切り取られて、後ろ手に縛られて、砂漠に置き去りにされる刑罰があるらしい。しかし、切り取られた瞼は、一体どのような処遇を受けるのだろう。裁判官の記念品になるのだろうか。褐色の二重瞼が瓶の中で漂っているのだろうか。それは、涼しげだ。
冷やりとした所。静かに眠れる所。そう考えて私ははたと思い当たった。空気の淀みが恐ろしくて、普段はあえて意識しないように心がけている所。あの蔵の地下室。
川井は私をあの蔵の中には入れたがらない。可哀想なシャム双生児でも閉じ込められているのか、白痴の娘が捕われている訳でもなかろうに、とにかく川井は、私があの付近をうろつくだけでも怒るのだ。でも、私は、あそこで涼むという考えに取り付かれてしまった。もう、一刻も早く、あの中に忍び込まなくては済まない。
部屋をそっと抜け出す。廊下の床板が意外に冷たい。ここで裸で寝転んでいたら、さぞかし気持ちが良いだろうと思う。でも、川井がいるのでそうもいかない。つままれて捨てられてしまうのがおちだ。
電話室の前を通って、玄関の吹き抜けに出る。三和土に下りると、足の裏がひんやりと冷える。ここでもいいや、などと考える私はもう末期的だ。
ぐるりと裏へ回って蔵の前に出る。この蔵は爆撃の中を無傷で生き延びた。しかし、古さ故の傷みは相当なものだ。壁土は剥がれつつあり、そこをほじった後も無数にある。ほじったのは私だ。幼い頃、私の遊び相手はこの蔵だった。蔵は大きくて、寛大で、いかなるときもその態度を変えなかった。私がシャベルで壁を壊しても、おしっこをかけても絶対に。
かつて白く輝いていた壁は、今では、暗灰色としか呼べない色に変わっている。妻側の棟に近い部分には、小さな明り取りだか、換気孔だかが二つ開いていて、真中に、矢のような飾りが取り付けてある。それがちょうど顔のように見えるので、私はいつも挨拶をする。
「兄さん。おはよう」
蔵は、血を分けた兄さんだ。実際、壁に開けた穴から指が抜けなくなって、ぐるぐると回していたら、血が滲んできたことがあった。 体に指をつっこまれてぐるぐる回されたら誰だって血を流す。こんなに大きな兄さんを傷つけてしまったと思った私は、泣き叫んだ。指も痛かったが、兄さんはこの何倍もの苦痛に耐えていたのだと思うと、私は兄さんに済まなくて、自分がつくづく浅はかに思えたものだった。
ぐるぐると回っていると、いろいろなことを思いだす。思い出はどこにあるのだろう。蔵の回りを回っていると、ノスタルジックな気分になる。抒情的な気分になる。しかし、こんな気持、汗には似合わない。
蔵の脇には、約束通りの井戸がある。この井戸は今でも水が湧いている。この夏は、西瓜もラムネも冷やしていない。これは川井の陰謀だ。私は井戸をのぞき込んで、そのままぐるりと体を回す。おしりを少し打つ。私は確実に生長している。昔は腕をいっぱいに伸ばして、つま先がようやく触れる程度だった足掛け石にも、今は膝を少し曲げないと具合が悪いくらいだ。トントンと石を伝って下りていく。頭がすっかり隠れるころに、膝の辺りに横穴が現われる。ここから、地下室へ入ることが出来る。私が作った道ではない。昔からあるのだ。体を窮屈にかがめて、そこに頭を突っ込む。
横穴は、私の肩ぎりぎりの大きさしかない。もう少ししたら、もうこの穴は使えなくなる。でも、そうなったら、蔵の鍵を拝借するくらいのことは許されるようになるだろう。
穴の中は湿った泥でつるつると滑る。私は顔をねじ曲げて、手を伸ばして少しずつ少しずつ奥へと進む。この泥は、とても冷たい、気持ちがいい。自分の体の柔らかさが、泥のトンネルの柔らかさのような錯覚を起こさせる。
ほどよい圧迫と冷たさの中で、私は不意に静止する。無理に進む必要はないと気付く。このままで、十分に気持ちが良い。
夏眠するオオサンショウウオの気持ちが分かる。そして、そのまま長いこと生き続ける彼らの気持ちが理解できる。彼らは何かを待っている訳ではないのだ。このまま、この気持ち良さを享受し続けたいだけなのだ。私にも分かる。しっとりとした泥の中で、私は久しぶりに、ぐっすりと眠った。
作品名:ミヨモノリクス ―モノローグする少女 美代の世界 作家名:みやこたまち