Ramaneyya Vagga
私の一族(私は庶流なので直接の祖先ではないが)に井出正次という人がいて、若い頃には武田信玄と戦い、のちに徳川家康に仕え、豊臣秀吉の小田原征伐に際しては秀吉の出迎え役となり、家康の開幕以降は駿河代官にまでなったのだが、彼の最期は、私には不可解なものである。彼は、井出家の菩提寺である北山本門寺と、分寺である西山本門寺との争いに関わり、宝物返還などを家康に嘆願したが聞き入れられず、切腹したというのだ。そこで私は、私の一族がそこまでに執着したものとはなにほどのものだったのかと思い、妙法蓮華経を読んでみた(本門寺は日蓮宗の寺である)。しかしそれはその字数の三分の二ほどが「これは偉大である」「これは尊い」と述べることに費やされ、残りの三分の一はというと、類型的な神話が語られているだけのもので、私が理解したのは、「そうかこの神話は偉大なのか、少なくともここにはそう書いてある」ということだけであった。私の人格と自然に対する疑問は、ひとつたりとも解明されなかった。
ところで「妙法(Skt:Saddharma)」とは、"正しい真理"の意である。経典が読む者にこのように名乗るのは、論理的には矛盾している。正しいかどうか、真理であるかどうかと見なすのは個人である。経典が「私は正しい」「私は偉大である」と言ったところで、私にとっては、天皇の場合と同じように、「おや、そのように言う人がいるな」というだけである(嘘つきのパラドックス)。
「彼の信仰」の例としてもうひとつ、世俗的な、今日的な形態を話させていただきたい。「美しい富士山」というような名前のTV番組があるとすれば(あるのだが)、奇妙である。美しいと見なすのは個人のはずだ。私はこの番組の製作者に申し上げたい。「それはあなたの信仰です」と。こうした恣意性が、今日強まっているように感じる。
「私の信仰」においては、超自然主義は必ずしも含まれないばかりか、むしろ特殊だと私は思う。それはある人の見解がある都合によって広められた結果にすぎないと私は見なす。詳しいことを忘れてしまったが、ある宣教師が野生児を教育し、どうにか言語や社会習慣は覚えさせたが、神という概念を理解させることはついにできなかったという。
科学とは何か
では、科学とは何か。私は、中学生だった頃を思い出す。物理学に耽溺していた私を、兄は嘲笑して言うのだった。「宇宙の始まりなんか、見たこともないのに、わかるもんか」と。私はにんまり笑って、「それがわかるから面白いんだ」と答えたものだったが、今にして思えば、兄のこの懐疑は、科学的なるものの本質をついたものであった。
私は相対性理論が正しいと信じているし、ペレルマンとハミルトンのリッチフロー理論による、サーストンの幾何化予想の証明が正しいと信じているし、太陽系は銀河系の腕にあると信じている。それは数式を計算したわけでも、銀河の外から太陽系を見たわけでもないのに、ある人がこうであると言っているのを読み聞きして、勝手になるほどと納得して信じているのである。これは先に述べた「彼の信仰」、宗教となんら変わらないのでは?
確かに似ているが、違う部分がある。科学的な知見は、多くの人の自らによる検証を経て、合意が得られているところである。「何を言っているのだ、宗教こそ、多くの人が合意しているではないか。でなければ、教団とはなんなのだ」と言う人がいるかもしれない。私は彼に尋ねたい。「本当に、合意しているのかな?」と。例えば新約聖書の一語一句を、すべてのキリスト教徒と見なされる人が正しいと合意しているわけではないのでは? にも関わらず「彼はキリスト教徒である」と見なされるのは、決して当人のユニークな意志に拠っているわけではなく、ある人のある都合に拠っているのでは? 「私の信仰」においても同様である。彼は彼のある都合によって、そのように見たく、そのように見るのだ。科学では、「ある人のある都合」は許容されない。「ユニークな意志(自らによる検証)」を経てなお合意されるものが、科学である。
だから、例えば歴史学などは、科学ではない。歴史学で、"説"と呼ばれるものがある。明智光秀が謀反した理由について、「一説には」などと。これは、ある人がそのように見たというだけで、多くの人の自らによる検証を経て合意されえない。「彼の信仰」であれ「私の信仰」であれ、このように、ある人がそのように見たというだけで、多くの人の自らによる検証を経て合意されえないのである。
今なら私は兄にこう答えたい。「確かに私は宇宙の始まりを見たわけではない。 しかし私は科学にはある人のある都合が含まれていないことを信じるがゆえに、科学的な知見もまた信じるのだ」と。
科学とは到底呼べないものが、多くの人によって科学と見なされるものは少なくない。例えば近年の遺伝子検査による疾病リスクの査定サービスなどがそうである。これは実際にはほとんど占卜である。
人ゲノム計画の完了をもって、人間の遺伝子の働きはすべて解明されたと見なす人がいるかもしれない。とんでもない神話である。人ゲノムの解読は、ただある人のタンパク質の並びを数えたというだけであって、その並びがどのような働きをするかについては、ようやく研究が始まったばかりである。にも関わらずこのようなサービスが存在するのは、これが経済的な存在だからに他ならない。この点においても、占いと呼んで差し支えないと私は見なす。
この種のサービスでは、遺伝的な疾病リスクを確率で示す。心筋梗塞うん%、アルツハイマー形痴呆うん%、といったように。ところでこの確率とは、いったいなんのことなのだろうか。ある人は次のように言うかもしれない。「もちろん、自然のパラメータのことである」と。しかしこの確率に限って言えば、そうではない。この確率のリストを労働として作った人が、私はこうであるとこれだけ信じる、という割合である(地震が起こる確率、などと言う人がいれば、それも同じである)。確かに彼は、科学的な知見に基づいて、その割合で信じるのだろう。しかしそれだけである。占星術が天文学の知見に基づくのとなんら変わらず、これは占いの域を出ていないと私は見なすのである。
私はそのように見たいので、そのように見る
私が科学的な知見に基づいて、自然主義的な信仰--人生の原理--を持ったとして(持っているのだが)、これは多くの人の合意が得られるものではない。ただ私が自らの都合でそのように見なしただけのものだからだ。私がその信仰を、多くの人の役に立つという理由の下に信じようとも、他者にとってみれば、「おや、そのように見なす人がいるな」というだけである。しかるに、信仰(ないし宗教)を、自然のパラメータであるとでも言いたげな人が、少なくないのではないか。
私とは、私の人生とは何か。科学的--多くの人が合意できるだろう見方--に言えば、それは私の父が私の母に欲情した結果というだけである。私もまたこの見方に合意するけれども、同時に私にはユニークな見方もある。それが私の信仰(宗教)である。私はそのように見たいので、そのように見るのだ。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu