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Ramaneyya Vagga

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科学と宗教を分かつもの-私の自然主義的信仰


「そのように見たい者は、そのように見ればよい」--仏陀釈迦牟尼(Atthakavagga 13-15)

 私の自然主義的信仰

 近代的愚劣の最も醜悪な形態を、その男は更に超えていた。と言って、ユニークというわけではない。このような人物は、人間なる種が生まれながらに備えた性質に従っているのみなのだから、ユニーク足りえるはずもないのだし、だいたい、私(ワタクシ)はとうに、社会というものは、このような人物で満たされた場所のことであると見なしていた。それでも私がかくも驚倒したのは、単にこの種の人物と身近に接するのが、ずいぶん久しいことだったからというだけである。目に入る人間に次々と絡み、不快にしていきながらフロアをさまようそのさまは、さながら人間スパム、ヴァイルス人間といったところであった。
 それはさるパーティでのこと。彼はひとり勝手に、私に対して劣等感を抱き、それを解消する手段として、最も早急かつ古典的な手段をとった。つまり私を侮辱しはじめた。そこで私に次のような感情が生まれた。
 「地獄に落ちろ」
 と。しかし思い直した。ブライト(自然主義者)を自負する私が、こんなことを言うわけにはいかない、と。この場合、次のように言うべきだ。
 「事象の地平線の向こうへ行ってしまえ」
 と。事象の地平線とは、ブラックホールなどの特異点において、光さえも抜け出せないために、その外側とのいかなる因果関係も絶たれてしまう境界面のことである。
 しかしそこで私は、常々抱いているある信仰に思い当たり、彼との因果関係を断つことなどできないのだった、と思い直した。そこで私はただ黙して身を慎むほかなかった。

 その信仰は、ある科学的な知見に基づくものだった。その知見とは、ペレルマンとハミルトンのリッチフロー理論による、サーストンの幾何化予想の証明である。
 サーストンの幾何化予想(William Thurston. 1982)とは、空間が取りうる形は、8種類だろう、というものである。その8種の形が正しく、本当にこの形のみならば、宇宙はおおむね丸くて、隔絶された部分は存在できないことになる。ペレルマンとハミルトンのリッチフロー理論は、この証明を達成した(Grigory Perelman. 2002-2003)。
 このニュースを聞き、この理論について-一般書によってだが-少し学んだ私は、次のように思った。
 「してみれば、私のどんな小さな行いも、いずれは宇宙のすみずみにまで行き渡るのだし、私もまた宇宙全体の影響を受けざるを得ないのだ。値の僅かな差異が、長い時間を経れば大きな差異を生むことは、コンピュータシミュレーションの隆盛や、カオス理論とかバタフライ効果などという語によって知られ始めて久しいが、少し考えてみれば当然のことである。ブラックホールの特異点が、隔絶された宇宙を生むようにも思えるが、スティービーが言うように、ブラックホールも不滅などではないのだから」
 と。ホーキング放射(Stephen Hawking. 1974)は、物理法則として光すら抜け出せない特異点から、二重スリット実験で明らかなように、小さな領域においては自然は必ずしも物理法則には従わないことによって、少しずつエネルギーが抜けていくというもので、すなわち特異点はいずれ特異点ではなくなるのだ。実のところ、ペレルマンのリッチフロー理論は、ハミルトンが解決できなかった特異点の問題を、「結局無視できる」としたものだ。
 私の信仰とはこのようなものであるのだが、ある人は、次のように言うかもしれない。
 「それは信仰などではない。科学ではないか。あんたは科学と宗教の違いもわからないのか?」
 と。そうなんです、そこのところが、よくわからなくなることがあるんです。


 宗教とは何か

 ところで、宗教とはそもそもなんなのだろうか。この語は明治期に作られた訳語で、我々がその意味をよく解し得ないのも無理もないのだが、一応定義しておかなければ、話が進まぬだろう。
 ある人は、超自然主義、神秘主義と同義であると言うかもしれない。実際、多くの場でそのような定義がなされている。しかし私はこれに懐疑的である。実際のところ、先に述べたような私の信仰には、超自然主義は含まれないし、Atthakavaggaなど最も古い詩句を見る限り、仏陀釈迦牟尼は超自然主義を説かなかった。
 しかし確かに、今日、普通に宗教と呼ばれるもののすべては、超自然主義以外のなにものでもないだろう。キリスト教、イスラム教などのアブラハム教、ヒンドゥー教、日本のような北伝仏教にしても、もちろんその例に漏れぬ。しかし宗教と呼ぶべきなのはこれら今日組織化された信者集団についてのみでよいのだろうか。私は個人の問題に引き戻したい。
 ほとんど少年のようだった頃、インドを旅していたおり、私はあることに感銘を受けた。もちろん私はインドの人々の宗教に関心があったので、人々とそういった話をよくしていたのだが、彼らの多くが、「私の宗教」「私の信仰」「私の神」といった言い方をしたことにである。私は感じた。「そうか、宗教とはこのようなものなのか」と。同時に、一般に宗教と呼ばれる信者集団のようなものが、奇妙に思えた。例えば、「イエスは神の子である」と言う人がいるとして(現にいるそうだが)、それを聞いた人が、「そうなのか」と納得するとする。しかし神というようなものがイエスを指差して、「彼は私の子である」と言うのを見たわけではたぶんないだろう。してみればその納得した人は、彼自身のユニークな見方でそのように見なしたはずだ(「私の信仰」)。しかし実際には、教団とか教義とかいうものが構成されている。こうしたものが構成される以上、それはある人がそのように見たものを、個人は自らのユニークな見方を排して--有体に言えば鵜呑みにして--受け入れなければならないはずだ。それは「私の信仰」ではなくて、「彼の信仰」である。
 結局私には、一般的な用法の「宗教」とは「彼の信仰」、「私の信仰」が「信仰」として用いられているように感じる。だからやはり、ここで私は私の科学的でないユニークな見方については、宗教ではなく信仰と呼んだほうがいいように思う。

 「彼の信仰」の例としては、天皇がある。私は、天皇とはこうである、と聞いたり読んだりするけれども、それだけである。尊いとか、偉大であるとか、日本国民統合の象徴であると言う人がおり、それを読み聞きした人の中には、「なるほど尊い」と見なす人がいるようだということを知っている。しかし私自身にとって彼は、私の先祖を征服した暴力王の末裔というだけであり、会ったこともなく、幾億人の見知らぬ人の一人にすぎぬ。
 私の一族について話すと、井出家は富士郡井出郷(今日の富士宮市上井出)で富士山の伏流水を用いた稲作をしていた(今日もしている)土豪で、鎌倉時代からの記録がある。源頼朝の富士の巻狩りに際しては、井出家の屋敷が本陣となった。その出自は藤原秀郷流というけれども、まったく疑わしく、私はあの辺りに点在し原始的な富士信仰との関わりが指摘されている縄文遺跡に連なる、単なる古くからの土着の一族だろうと見なしている。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu