Ramaneyya Vagga
スーパーB氏かく語りき。「宇宙は、神ないし神のような知性によって作られた。生物もまた同様である。我々には生きる意味があり、目的がある。なぜなら神の知性によって作られているからである。もしも神に知性がないならば、我々はなんの意味もない存在ということになってしまう。宇宙がなんの意味も目的もなくたまたま生まれ、我々がなんの意味も目的もなく競争しているだけだとすれば、私はいますぐ自殺するしかない。とにかく人間のようなものがたまたま進化したなんてありえないし、宇宙がたまたま生まれたなんて絶対にありえない。私の道徳的な原理は、神の知性に拠っています。なぜなら私はそのように作られているのですから」
この違いはどこからやってくるのか。やはり原理の出所が自然なのか超自然なのかの違いだろう。ところで超自然とはなんのことなのだろうか。「自然ではないなにか」の意だろう。しかしその「なにか」とはなにか。神、霊魂、人間の心、などと説明する人がいるかもしれない。しかしそれはなんなのか。私が思うに、それはある人が、そのように見たもののことではないだろうか-繰り返すが私はブライトである!-そうならば、ブライトにとって、それは超自然でもなんでもなく、我々にとって最も身近な自然現象のひとつである(事実、認知科学などの分野で、自然現象としての研究がなされている)し、単にその人がこれは真理であると見ただけのことで、「それが真理なのか」と信じようがないものである。
少なくない数のブライトが、スーパーに対して、無礼であると知りつつも、まぬけとか、愚劣とかいう印象をぬぐえないでいる。それはなぜなのか。それは知性とは、情報を分析して、判断する主体に与えられる名称であると見なすからである。ある人が、「これは真理である」と言ったとして、それを聞いた人が、「あなたがそう言うなら、そうなのだろう。私もそう思いますよ」と言うとしたら、彼はその、人を尊重する謙虚さと、子供のような無垢さを称えられるとしても、知性的ではない。多くのブライトは、スーパーとはこのような-人を尊重する謙虚さと無垢さを称えられるとしても知性的ではない-人であると見なしている。
これはまったく間違った偏見というわけではないと思う。例えばニューエイジ的な運動がしばしば恣意的なのが、私にそう思わせる。
ある人が、「原発をやめる100の充分な理由」という本を出版して、私に薦めるとする。私がこのタイトルを見たとき、「充分」かどうか判断するのは個人だから、「原発をやめる100の私が充分であると見なす理由」を省略してあるのだと思うだろう。しかし読んでみると、どうも、これを読んだ人が、充分であると見なさなければならないと、彼が定めているようだ...
このような恣意性が氾濫しているのは、私には驚くべきことであり、率直なところ、不愉快でもある。誰がなんと言おうと、それは私が判断する!-実はこれこそが、ブライトがスーパーにならない感情的な理由である。
ありえない、という物言いは、いったいどういう意味だろうか。それはとりもなおさず、彼がそう見たのである。
人間が500万年ほどでたまたま猿から進化したと言うのは、砂浜の砂粒がたまたま500万年後に時計に組みあがったと言うようなものだ、そんなことはありえない、というような、ポピュラーな立言がある。私は確信するのだが、これを言う彼は、500万年という時間がどのくらいの時間か、想像してみたことがない。500万年とはどのくらいの時間なのか、少し体験してみよう。あなたが100年生きて、死ぬと、すぐに赤ん坊になることを想像していただきたい-あなたがブライトで、輪廻転生を信じなくても大丈夫。人間は超自然だって想像できる!-100年を10回生きたら、1000年である。10回生きる。これはまあ想像できる。
では、10回を10回、100回生きたらどうだろう。これで1万年である。なんとか想像できるだろうか。では、100回を10回、1000回生きるのは? これで10万年。ちょっともう怪しくなってきた。いったいどんなことが起こるのか、どんな様子なのか、もうほとんどわからない。では1000回を50回生きるのは? これで500万年だが。5万回生きる! 私はこう思う。どれくらいの時間かわからないが、とにかく人間でも時計でもなんでもできるくらいの時間なのは確かだ。そしてどんなに少なくとも私には5万人以上の祖先がいて、彼らの苦しみも喜びも知るよしもないこともまた、確かなことだ、と。
ブライトは、次のように考えるだろうか。「自然の仕組みを調べ、その知見を学び、そこから導かれる答えが最善であるから、すべての人間は、自然科学などの知見を学ばなければならないし、学ばない人には、教えるべきだ」と。つまり科学の布教をするべきなのだろうか?
インド洋に、北センチネル島という島があって、センチネル族と呼ばれる人々が暮らしている。彼らは、我々が言う原始時代のような生活様式を維持しているという。というのも、彼らは部外者に徹底的に敵対的で、いかなる干渉も許さないからだという。2004年のスマトラ島沖地震の際、インド政府の救援ヘリコプターに対して、彼らは矢を放った。
彼らに、自然科学の教育を受けさせるべきだろうか? あるブライトはもちろんだと言うかもしれない。しかし私はそうは思わない。というよりも、私は北センチネル島へ行って、彼らの仲間にしてもらいたい。そこで私は漁をしたり、屋根を葺いたり、籠を編んだりして暮らしたい-なんと素晴らしい生活だろう! 問われれば、あるいは太陽の燃焼や、潮の満ち引きの"神話"を語るかもしれない。しかし進んで彼らに科学的な知見を学ばせようとはしないだろう。なぜなら、そこではそれでも充分に-充分すぎるほど!-うまくいくだろうから(だいたいセンチネル族としての私は、仲間たちから現在を生きることの重要性を学ぶことで忙しく、それどころではないだろう)。我々の問題は、この大量の人間と、それが複雑に影響しあっていることである。なるほどここにおいては、科学的な知見が、合意の原理として必要である。
では、例えば私の隣人が筋金入りのスーパーだったなら、私はこの隣人に"布教"をしたほうがいいのだろうか? 私は私の見解を述べるに留めたい。「あなたは考えを変えたほうがいいですよ」などとは言いたくない。もしも私が人にそんなことを言われたら、屈辱に耐えられないだろうし、なによりも、「これはこうである」と見なすことは、個人にしかできないことであるはずだからだ。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu