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Ramaneyya Vagga

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我々は合意できる


 私はブライトであるから、もちろん、超自然というようなものを信じていない。しかしブライトが超自然を信じないのは、それが存在するとは考えられないというよりも、神秘主義(ないし精神主義)の効果に懐疑的だからだ。神秘主義は、どんな人にも同じ印象を与えない-ある人がそのように見たことに依っているからである-つまり合意に至らない。合意できないとき、多くの人間は、暴力を生み出し、暴力は、連鎖し、循環していき、我々に悲惨な経験をさせる。しかるに、スーパー(supers.supernaturalist) は(もまた)、合意を望む-布教である-暴力は増大していき、今日の我々がここにいる。私は、人類史とはこのようなものだと見る。ブライトが神秘主義を退けるのはこのためだ。
 自然科学の目的は(もまた)、合意である。数学は、この目的を達するのに最も効果が高いがゆえに、ブライツの尊敬を獲得しているのだ。
 機械論とか、科学万能主義が、バイオビジネスなどの問題の原因ではないか、アンチテーゼとしての、古典主義としての神秘主義は、役に立つではないか、と言うスーパーが-あるいはブライトも-いるかもしれない。アンチテーゼなら、ブライトだって大好きだし、一理あると思う。しかしそれはもう、少し昔の話ではないかとも思う。今や、スピリチュアル占い-占いはそもそもスピリチュアルだから、きっと徹底的に自然主義を廃したものに違いない-とか、超自然水-しかし説明を見ると、「自然水です」と書いてある。自然でないのか自然なのか、どちらなのか、知りたいものである。しかし尋ねても、「どちらでもありません。あなたの知らないものです」という答えしか得られぬだろう-などという神秘主義ビジネスが花盛りだし、エコテロリズムはますます精力的である。だいたい、霊魂を信じない人に私は会ったことがない-いかにも。ブライトは孤独である!
 とはいえ、今も昔も、科学者というものが、「すっとんきょう」とか、「mad」とかいう語で象徴されるものという状況は、そんなに変わっていない(信じがたいほど馬鹿馬鹿しい研究というものはたくさんある。あるイギリスの研究チームは、犬にヘヴィメタルとショパンを聴かせて、犬がどちらを好むか"研究"した。彼らは次のように発表した。「どうやら犬は、ショパンのほうをより好むようだ」)。ブライトもスーパーも、広く学ぶべきなのは変わらない(補論を参照されたい)。

 「人はそれぞれである」私はこの近年多くの人が好む言葉が、昔から好きではなかった。確かにこれは寛容さと個人の尊重の重要性を端的に表現する、今日も有益な言葉だろう。しかし私はここに、人は決して合意できないという、敗北主義(あまり良い語ではないが)を見ていたのだ。私はむしろ次のように言いたい。「我々は合意できる」と。
http://www.the-brights.net/


補論 いかなることがらをも知りぬけ-彼らは、他人によって清らかになると説く

内的にも外的にも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人は説かない。
Atthakavagga14-3

「我は知る。我は見る。これはこうである」という見解によって清らかになることができる、とある人々は理解している。たとえ彼が見たとしても、それがそなたにとって何の用があるだろう。彼らは、他人によって清らかになると説く。
Atthakavagga13-14

 あるスーパーにとっては、ブライトが道徳的な原理をどうやって見い出すのか、謎かもしれない。ブライトは、もちろん唯物論者である。ならば、ブライトたちは、食物の量や金銭の量のみに価値を置き、人の心の痛みや喜びを、なんの意味もないものと見なす、恐るべき冷酷な人間に違いないという、ブライトたちを苛立たせてきた、一部のスーパーの、唯物論者が精神もまた物理であると見なしていることをうっかり忘れている、素朴な誤謬は、しかしまったく的外れなわけでもない。もしも宇宙人というようなもの-小さな灰色の!-がいるとして、彼らが我々を見たならば、今日の科学技術に依拠した人間社会の有り様は、通俗的な意味における、物質主義に拠っていると結論するだろう。それは我々も知っているように、津波ひとつで、また太陽風が少し強く吹いただけで、一瞬で崩壊してしまう、文字通り吹けば飛ぶ、ハリボテのように脆いものである。
 原子力技術というものがある。その昔、ある人が、次のように考えたかもしれない。「この技術でエネルギーを取り出せるし、またそうするべきだ」彼はブライトだったのかスーパーだったのか? きっとブライトだっただろう。しかし彼は、ひどく不勉強なブライトだったのだ。
 マンハッタン計画は1942年に始まっている。もちろん、当時ダークマターやダークエネルギーは知られていなかった(宇宙項はともかく! ダークマターは仮説としてすでにあったが、ごく一部の天文学者にしか知られていなかったという)。しかしこの頃にはすでに、不確定性原理は知られていたし、もちろん人類の暴力や貪欲の歴史も充分に研究されていた。彼は、「この技術でエネルギーを取り出せるとしても、我々は自然を完全に把握していないので、それは安全にできないかもしれないし、それができたところで、我々の幸福には寄与しないかもしれない。だいたい、エネルギーがあったところで、それがなんなのか」というような懐疑を、検討できなかったのだから。
 ブライトの道徳的な原理は、自然からやってくる-だってブライトは自然主義者である!-一方スーパーの道徳的原理は、超自然からやってくるだろう。ここで創造論と進化論を題材に、両者の違いを見てみよう。

 ブライトA氏かく語りき。「自然科学の知見に拠れば、宇宙は、たまたま、現在の状態にいたることができる初期状態で、たまたま、生じた。その初期状態によって、ここに太陽ができ、地球ができ、タンパク質が自己複製と代謝を始め、それらは競争した。あまりにも長い時間それを続けたので、今日我々がここにいる。ところで、我々がこの偶然と長い時間-祖先たちの苦闘-の上に存在しているのならば、これは神聖である。我々の心の痛みや喜びが、物理的な事象にすぎないとして、それがなんだというのか。ともかく我々は痛いし嬉しい。感情的にも生物学的にもこれこそが我々にとって唯一重要なことである。しかしそれは物理的な事象なのだから、科学的な知見を拠り所に、問題を解決することはできる。ゆえに我々の道徳的な原理は、自然である。自然の仕組みを知ることで、我々が問題を解決するかしないかは別として、問題の構造と、その問題を解決する方法を知ることは出来る。人生の意味や目的? それは個人の問題です」
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu