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Ramaneyya Vagga

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井出甚之助正次[未完]


 井出甚之助正次は私の先祖にあたり、富士山麓の土豪から徳川家康に抜擢されて駿河代官にまで出世したが、家康の日蓮宗への政策に抗して諌死したという人物である。若い頃武田信玄と戦い、おそらく織田信長の甲州征伐時には信長に会い、小田原征伐に際しては家康から豊臣秀吉の出迎えを命じられて秀吉にも会っているという、戦国武将としてなかなかに華のある経歴の持ち主なのだが、彼について書かれた物語のようなものは見たことがない。私は常々死ぬまでに故郷と先祖について書いておきたいと考えていたが、先日叔父や私の一族の菩提寺である北山本門寺の長老に物語ってもらう機会に恵まれたので、ここに書き留めておくことにした。
 井出家の諱の通字は"正"で、正次の父正直、正次の兄正俊などもそうだが、私の父の名もまた秀正であった(私自身の名は古式通り"浅間さん"にもらったのだが、この通字を受け継ぐことはなかった。日本の文化が本格的に変化して伝統的なものがいよいよ失われたのは、私の世代の頃からではないかと思う)。思うにこの通字は法華経から来ている。法華経のサンスクリットの元の名はSaddarmapundarikaと言い、直訳すると"正しい法の白蓮"となる。日蓮宗などでも用いる『妙法蓮華経』は五世紀の鳩摩羅什の訳だが、現存する最も古い漢訳である二世紀の竺法護の訳では『正法華経』であり、日蓮宗では"正法"の思想が強調された。井出家と日蓮宗との関係はおそらく開祖日蓮にまで遡り、正次自刃の原因にもなるわけだが、それは本編で。


 1.正邦叔父の物語り。井出家縁起、正次年少の頃
 父の兄である正邦叔父を訪ね、「叔父上、いずこからなりとも、物語っておくんなし」と言うと、叔父はただ一杯の酒をもって実に多くを語ってくれた。
 「おれが爺さんに聞いたことには、おれらの家はそもそも熊野別当の家柄だった鈴木なにがしが、何の用があったか知らんが駿河に来て、このへん、富士宮に下ったのが始まりということじゃ。頼朝公が生まれるより大分前のことで、このへんは井出郷と言ったので、それで井出と名乗ったということでな。いまも北山の上のほうを上井出、中井出、下井出と言うじゃろ、あれはおれらの家からできた名でのうて、もともと富士さん(1)の湧き水が出るから井出と言っておったのじゃな。上井出のへんは今も田んぼが広がっちょるが、あれはずっと昔におれらの家が開いたんじゃぞ。浅間さんはもうとっくにあってな、井出の家は浅間さんに米を納めたんじゃ。頼朝公が兵を上げると、浅間さんは頼朝公に味方してな、井出の家も当然加勢したんじゃ。富士川の戦いにも出たそうだの。富士の巻狩りのときには、おれらの家は頼朝公の陣所になった。狩宿の大家(2)の駒止め桜、知っとるじゃろ、あすこじゃよ」
 要するに、井出家は今日の富士宮市北部、昔は井出郷と言った土地の土豪で、古くから大宮浅間大社に仕えていたということだ。面白い話だったが、私は甚之助正次の話を早く聞きたかった。
 「叔父上、志摩守正次のこと、聞いていますか」
 「聞いとるとも。甚之助さんは子供の頃からかいな力が強くて、子供ながらに浅間さんの奉納相撲で優勝して、それがきっかけで、兄君を差し置いて、井出の家を継いだということじゃ」
 相撲で家督を継いだ? 私は甚之助正次についてはかなり調べたが、このような話は見い出しえなかった。私は正邦叔父の物語りに聞き入った。

(1)富士さん--富士宮の人間が「ふじさん」言うとき、富士山よりも富士さんという敬称の思いがある。浅間大社を浅間さん、インド人がバガヴァッドギーターをギータージー(ギーターさん)と言うのと同じである。

(2)大家--宗家の意。叔父や私の系統は井出家の庶流である。井出宗家の古くからの屋敷は井出代官屋敷として現存し、歴史遺物として公開されている。駒止め桜とは、この屋敷の庭にある、源頼朝が馬を繋いだと伝わる古木。下馬桜とも。


 2.大宮大相撲

 駿河国富士郡上方(3)に井出郷という地あって、富士の雪解け水を用いた水田が広がっている。この田を開き井出郷を知行したのが井出氏であり、源頼朝公以前よりの土豪であった。さて時は戦国、永禄年間のこと、この井出氏当主正直の次男に甚之助という者がいて、いまだ数え十二であったが、生来利発で直言を好み、膂力絶倫で弓槍を手足のように扱い、馬に乗れば朝霧の野を風のように駆けるといった有様で、英雄の相自ずから備わっていた。
 さてその頃大宮大相撲の時節となって、富士上方の村々では出場する力士を選んでいた。そもそも大宮大相撲は、大宮浅間大社においてご神体たる富士に奉納する神事であって、山宮よりの遷宮以来八百年来続けられてきた。村々を治める名主の子息が出場する慣わしであったから、各家の威信がかかる行事であった。元服前の者による童の部と、成人による丈夫の部の二部があり、正直には数え十八の長子正俊と甚之助がいたから、井出郷からはこのふたりがそれぞれの部に出場することとなった。
 さる程に、湧玉池のほとりに富士上下の庶人のみならず、今川氏真卿駿府よりまかりこし、大宮社人によって鐘、太鼓、笛が囃されて、大宮司富士信忠の触れあって、永禄六年の大宮大相撲ここに華の咲くように始まる。今川氏真卿は富士信忠の歓待を受けてたいそうご満悦であったが、おりしもこの頃、氏真卿の妹御の嶺松院の輿入れ先たる甲州の武田義信は、父の信玄入道卿との不和これ極まれりとまことしやかに噂されていたし、かの桶狭間以来、松平家康卿は三河を平定して遠江をも奪わんとする勢いであったしで、「今川の殿は相撲どころではあるまいに」と、庶人は密かに囁いていたのであった。
 さて童の部が始まるや、相手力士を次々と上手投げにて放り投げるひとりの怪童がいた。庶人この童を見れば、数え十二ほどに見えるが容貌堂々として威厳これ備わり、勝ち鬨の声と笑顔も爽やかに、いかさま世の常にない。氏真卿これを見て富士信忠にあれは誰かと問えば、信忠答えて、「あれはそれがしが被官、井出郷の井出正直の次男、甚之助にて候」とて、いと誇らしげに土俵の甚之助を仰ぎ見る。とはいえ信忠も甚之助の怪童ぶりをものの話に聞くのみであって、目にするのは初めてであった。
 さても甚之助は鯉が目高を追い散らすかのように連戦連勝、ついに決勝戦まで勝ち進む。甚之助が西のかたより決勝の土俵に登れば、東のかたより登るは体躯堂々たるひとりの童。年の頃は甚之助と同じばかりと見える。立行司が触れるには、「東、山本郷、吉野源助」と。
 土俵下でこれを聞いた甚之助の父正直と兄正俊、さらには井出郷の庶人、「甚之助、今こそ井出の威風を示すときぞ」と心のうち密かに思う。それもそのはず、井出郷と山本郷とは古くは潤井川の水を巡って争ったことがあり、またこの頃は大宮司富士氏の被官としての地位の一二を競っていたのであった。また吉野家では我が本姓は源氏であって御家人出身であるとして、頼朝公陣所ゆかりとはいえ由緒怪しき百姓にも等しき地侍に過ぎぬ井出家よと見下すことしばしばでもあった。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu