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Ramaneyya Vagga

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El Dorado Sounds


 古代的伝統の最も巨大な情熱を、彼の芸術は内包している。この自然という自然から放出されていく果てしない一楽譜、風を受ける諸々の樹木の急速な繁栄、また、空の永遠の光、これらは表現することも不可能だ。
 俺は花々の咲く森林の泉で、彼の鼓動を聴いている。驚いた音である。ヒマラヤのハリというような神が、彼の心に勇気を打ち込んだものに相違ない。泉の中に、樹木の枝葉にと、彼の鼓動から色とりどりの光が放たれていた。
 この強力な純粋な肯定。このような勇気が俺たちの途方もない希望を肯定する以上、俺たちの大地への足どりに、いったいどんな種類の問題があるものか。

 El Dorado Soundsの芸術の表面的な特徴を表現することは、それほど困難なことではない。この比類のない音楽は、水素爆弾の炸裂によって引き起こされたかのような強力なキックと、飛び散る衝撃波のように次々と繰り出される果てしない高音の旋律で構成され、わずかに人の耳に侵入するやたちまち精神の奥底へ到達し、ただちに聴覚を支配して、それが描くことの景色の移りゆきを眺め、雲の形成をたどること、すなわちダンスを引き起こし、その音綴(シラブル)の不可思議な必然性によって、人のあらゆる自己の都合に基づく想念を屈服させてしまう。やがてキック音はいかづちの一撃となって人を襲い、頭蓋骨を破壊して脳を露出させ、高音のシラブルが脳表面をなでていく。換言すれば、彼が本来望んでいる形態の自己に対して、絶対的な肯定を与えるのである。こうした知性の不断の活動によって誇りを回復した彼が見るのは、自然と自己の核心にある唯一無二の要素たる一存在に他ならないのであったが──やがてこの8000メートル峰への冬季単独無酸素登頂にも似た過酷な旅は、精神を疲労紛糾させ、時には了解ができないのではないかと思わせた。音楽から思想や想念への即座の融解を拒んで、この旅は聴く者に、知性のますます過度に鋭敏な活動と、堕落への厳粛な規制を要求したのである。この強力な肯定と厳正さゆえに、この芸術は人に強烈な影響を与える一方で、我々の怠情な、かたくなな精神を傷つけるのである。

 音の組み合わせとその時間による移り行きが、人の精神に影響を与えることは、いわんや太古から知られてきた。この効果が、魔術とか、呪術とか、祭祀などとして用いられ、宗教とか、哲学とか、科学とか、また人間の感情自体をも、構築してきたのである。この音楽は、かつて人間が自己の生き方と、世界の捉え方を決定する、唯一にして最上の道具であった。衣食住の確保に追われる生活の中で、音楽の演奏、ないし舞踏によって、この自己の一見なんの意味もない人生を、自然の無上の美と同一化させること。彼が心の中に抱いている一世界において、他の誰一人として代わることのできない場所を満たしていると、確かに信ずること。全宇宙に対して、この確信を宣言すること。自己の存在の価値を、探求し、研ぎ澄ませていくこと。音楽の目的と効果とは、本来このようなものであったはずだ。
 いつしか、腐食しない金属の備蓄とか、奴隷など他人への依存などによって、人はこの自然への自己表現を、不必要、ないし価値がない、とみなすようになった。爾来、音楽においては、人を楽しませることないし時間をつぶさせることが問題であるから、聴く者が不断の努力によって魂を精錬するとか、積極的に知性を発動するとか、苦しみや疲労に属する要素を、排除することが一般的となった。これは恐らく、快楽と労苦とは相容れないとする、素朴な信仰が勝利を収めているのである。

 僕はときおりAstecaに語った。
 「僕は君の音楽を変わったもの、異端のものだとは思っていないよ。それどころか最も正統的な、伝統的なものだと捉えている。また難しい音楽だとも思っていないよ。これは人間の自然に対する最も素朴な印象で、反応だ。なるほどこの音楽は自分にはよくわからぬと感じる人も多いだろう。しかしそれは人が様々な原因で心にかせてしまったくびきのせいだ。自然への信仰なくして、この勇気を受け入れることはできないからね」
 すると彼はただ黙然とうなづいて、遠い空を眺める。僕たちは自然の様子を確認する。

 何ゆえに、我々がこうして呼吸し、食物を得、熱を放出し、大地を歩き、空を見上げるまさにこのとき、自然こそが全てであり、唯一であって、これこそが我々自身なのだから、これを観察し、理解し、愛することこそが、我々のただひとつの目的であると、何ゆえに、同意しないのか。
 自然を精微に観察してみよう。ここにはおよそ人間的な平俗な感情はない。誇張もない。雄弁もない。虚言もなければ、甘えもない。ここにあるのは、絶えず思いもよらぬ急速な遷移と変動、ある果てしなく遠い一点への猛進、美という語をもってかろうじて表現しうる、この人を絶えず驚倒させ、心を打ちふるわせる性質。絶対的な勇気という放射をやめることのないこの存在。
 これこそが、El Dorado Soundsの表現する対象であってみれば、我々は我々自身の最も重大な誇りにかけて、彼、Astecaの挑戦に応えなければならない。
 彼の芸術は語る。自然はかくの如きありさまだ。さて俺たちはこれにどう応える?他人をおとしめて貯金するか、またはひとりTVを見て死を待つか?この如き自然の中で?
 El Dorado Soundsの音楽の中で、我々は初めて自然の真の顔を見る。いま現在の、現実の、ありのままの姿を見る。このとき我々の誇りが試される。
 我々の平常な状態。通勤して、労働し、帰宅して食事し、入浴する。
 また現代に一般的な音楽。抒情や、愛憎。
 El Dorado Soundsが表現する自然の現実の姿と、これらを対比したとき、我々に残るのは、我々がたったひとつ信じているもの、自身の誇りへの、傷だけではないのか。然しながらそのとき、ようやく我々の誇りは再生し、輝くのである。

 この芸術は、他の音楽に限らず、あらゆるものと状況とにおいて、誇張とか、虚偽とか、欺瞞とかに対して、次第に我々を敏感にさせていく。我々がこの音楽に包まれる中で、現実こそが真実であり、正しさとは自然の姿に他ならないと一度了解したならば、El Dorado Soundsが我々に放射し、そして我々自身から放射していくのは、いかなる暴力にも、怠慢にも、欺瞞にも、決して屈することのない、永遠にして無限の、勇気だけだ。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu