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Ramaneyya Vagga

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 トドは叫び声ひとつあげなかった。ワウリの銛はトドの首の後ろから深々と突き刺さった。いや貫いた。血が飛び散る音もさせなかった。一瞬にして息の根をとめたのだ。奴は間違いなくトド狩りの名人だった。シベリア中を探しても、ワウリ以上の名人はいないだろう。
 俺とパールラヴィが呆気にとられている間に、音もなくバツがワウリの脇に走ってきていた。ワウリはトドに手早くロープを巻きつけ、バツにくくりつけた。俺とパールラヴィはただ氷をがりがりかいてるだけだった。ワウリとバツはロープを引き、この五百キロを超えるであろう肉を引きずった。十メートルばかり引きずったところで手招きした。俺たちは氷をかいたまま用心深く後ずさり、ワウリにロープを渡され、トドを引きずった。
 俺は渾身の力を込めてトドを引いた。ボートまでなんとかたどりつき、ボートにくくりつけた。
 「うまくいっただな」
 ようやくワウリが喋った。
 「ワウリ、ありがとう」
 パールラヴィが言った。それは心がこもった礼だった。ワウリは大いに照れた。
 「いやおら、ただトド狩りが好きだで」
 「でもすごかったわ。あの銛を打つとき、私にはワウリの姿が見えなかった」
 俺も見えなかった。あのとき確かにワウリは消え去った。完全に風になっていた。いやネネツの鬼神になっていた。
 「うん、おらトド狩りだけは誰にも負けねえ。おらトド狩るために生きてるだで」
 ワウリは初めて自分のことを誇った。日頃謙虚な彼が、トド狩りの精美な技術についてだけは自信を持っているのだ。俺とパールラヴィは心からうなづいた。
 そのときだった。バツが唸っていた。ワウリはとっさに振り向いた。彼としたことが、パールラヴィに気を取られて背後の猛烈な闘気を感じ遅れた。俺たちが振り向いたときには、巨大な牙を剥きだした一頭のトドが、十メートルとない先の氷の上で、怒り狂っていた。奴は俺たちを睨みすえ、その牙の餌食にするべく、ゆっくりと近づいてきていた。
 「ゆっくり船に乗るだ」
 ワウリは静かに言った。俺とパールラヴィは言われたとおりにした。
 「船出すだ」
 「馬鹿、おまえとバツはどうすんだよ」
 俺は小声で言った。
 「いまおらも船に乗るとあいつは船に突っ込んでくるだ。いいから船出せ」
 彼は我々トド狩り団のキャプテンだった。俺は言われたとおりにするほかなかった。トドを左舷にくくりつけたトド皮ボートは、ゆっくり氷を離れていった。
 「ワウリを見捨てるの!?」
 パールラヴィは泣きそうに叫んだ。
 「馬鹿言え。あいつならなんとかする。こっちもあいつに合わせて戦うんだ」
 俺には奴の考えがわかった。いくらワウリとバツでも、一トンを超える大トドと真正面から戦うのは無理だ。逃げるが勝ちだ。だが下手に逃げると背中を牙に貫かれる。あいつは一瞬のチャンスを狙っているんだ。バツもきっと同じ作戦だ。俺はその一瞬のために、ワウリとバツが船に飛び乗れるぎりぎりの地点にボートを置いておけばいいんだ。
 ワウリとバツは全身に殺気をみなぎらせていた。だからトドもうかつには近寄れなかった。向こうも向こうで隙をうかがっていた。一瞬、風が吹いた。海が細波をうった、いまだな。
 ワウリとバツは電光石火に駆け出した。俺は櫓を握り力を込めた。ワウリとバツが氷を蹴るのと俺が櫓を回転させるのはまったく同時だったはずだ。どすん! とボートに衝撃が走り、俺は無心に櫓を漕いだ。三十年生きてきたけどこのときほど真剣だったことはなかった。パールラヴィとワウリと、バツ。大切な仲間だった。死なせるわけにはいかなかった。
 俺は肩を叩かれて、はっとして振り向いた。ワウリがにやにや笑っていた。パールラヴィはうれし泣きしていた。
 「やっただな。みんな助かっただ」
 ワウリ、この野郎。まったくおまえはたいした野郎だ。
 「恐かった」
 パールラヴィは俺に抱きついた。俺たちはキスをした。バツが尻尾をぶんぶん振り回し、白い息をまき散らして俺たちに飛びかかった。
 あの恐るべき恐怖の入り江を見ると、あの大トドが、とぼとぼと群に戻っていくところだった。あれはきっと、この巣の王だったのだ。俺たちの勇気を試し、もし生きる価値がないのなら、この入り江の、トドの鬼神の贄にしようと思ったのだ。きっと、俺たちはあの王に今後の人生を祝福されたのだ。
 湾の入り口でボートを引き揚げ、ワウリは包丁でトドを解体した。氷がみるみる真っ赤に染まっていった。
 「肝はいちばんうまいだぞ」
 そう言ってワウリは俺とパールラヴィに血が滴るトドの肝臓を切り分けてくれた。湯気が血の匂いを際だたせた。でも悪い匂いじゃなかった。くたびれて、腹がぺこぺこだった。口を真っ赤にして食った。素晴らしい味だった。
 ワウリはバツにも肝臓をくれていた。バツは舌を鳴らして食った。
 「おいしい」
 パールラヴィは感動した様子だった。
 「でもおら腎も好きだ」
 そう言ってワウリは腎臓を切り取り、むさぼり食った。こいつは大麻の吸いかたも豪快だけど、食いっぷりも惚れ惚れするようなものだった。
 腎臓と、腹の肉を食った。どの部分も格別な味だった。こんなにうまいものは食ったことがなかった。パールラヴィも俺も、ワウリもバツも、食いたいだけ食った。食い終わったときには、顔半分とトド皮の袖が真っ赤に染まっていた。
 「やっぱりトドがいちばんだな」
 ワウリはうなづきながら言った。俺とパールラヴィは吹き出して笑った。
 「ああ、トドは最高だ」
 「ええ、トド狩りは最高の仕事だわ」
 ワウリはてきぱきとトドをばらしてくれた。本当は骨も大切なんだが、と言いながら肉と切り分けて、骨を捨てた。トナカイの子供を剥いだ革袋に肉を分けて入れた。持ってきていた革袋では到底ぜんぶの肉は入らなかった。氷穴に捨てた。
 「魚が食うだ」
 とワウリが言った。
 みんなで大麻を一服して、来たときと同じくボートを引きずった。でもトド狩りのおかげで勇気を得た俺とパールラヴィは、来たときよりも楽々と、二百キロばかりの肉と脂肪を乗せたボートを引いた。俺はまた、赤毛のエディのことを思い出していた。エディ、おまえの言葉は本当だった。トド狩りは、確かに教えてくれる。生きるってことの意味をな。
 ずいぶん遅くなった。もう太陽が上がる寸前といった感じだった。やばい。村の連中に見つかったらちょっと面倒だ。ワウリの信用がなくなる。
 港に近づくと、心配していたことが待ち受けていた。港にはたくさんのネネツ人がいるようだった。
 「ワウリ、どうする」
 「仕方なかんべ。正直に言うだ」
 「すまんな」
 俺は本当に申し訳がなかった。もともと、ワウリにはまったく関係がないのだ。俺とパールラヴィが腹を空かせようと、凍え死のうと。
 「なに言うだ。おらは自分でやりたいからやっただ」
 ワウリはそんなことを言った。ワウリは、確かに男の中の男だった。ネネツの中のネネツだった。俺は彼を尊敬しさえした。
 港にいた連中は桟橋まで来て、何人か氷の上を走ってきた。こりゃただごとじゃないぞ。ワウリ、連中避難ごうごう浴びせるつもりだぜ。村の掟を破ったんだからな。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu