Ramaneyya Vagga
俺たちは細心の注意を払い部屋を出るとロープを伝って海に飛び込んだ。泳いだ。俺はパールラヴィを振り返った。フリゲート船の臼明かりに照らされて、かわいそうなパールラヴィは真っ青な顔をしてもがいていた。たぶん、こんな芸当をやったのは人類史上俺たちが初めてだった。トドの毛皮に身を固め、氷海を泳いで殺人鬼から逃げるなんて芸当はな。
上質なトドの毛皮服は絶対に水を通さないっていうけど、俺たちが着ていたのはあいにく安物だった。水はすぐに体中を内側から冷やした。死ぬかと思った。でも死ぬわけにはいかなかった。可愛いパールラヴィを暖かいベッドの上で抱くまではな。
50メートルくらい泳いだと思う。俺は氷にとりつき、よじ登った。もう大丈夫だと思う。奴らからはこんなところまでは見えない。氷の上を恋人同士が手に手を取って走っていたとしても。
「助けて!」
パールラヴィが叫んだ。もう泳げないんだ。体中の血が凍りかけているんだ。俺は一も二もなくまた海に飛び込み彼女を助けた。抱き抱えてなんとか氷にとりついた。氷の上に引き揚げた。ああ、かわいそうなパールラヴィ。がたがたと体をふるわし俺に抱きつく。しかし見上げたものだった。この50メートルの航海をやりとげたんだからな。氷よりも冷たい海水につかってだ。俺の恋人にふさわしい女だ。
氷の上を駆けて逃避行を無事やりとげ、俺たちは街のかけ込み宿に飛び込んだ。風呂に入ってウォッカを飲んだ。すてきにセックスした。いままでで最高のセックスだった。
俺たちは頑丈だった。昼に目が覚めたけど、くしゃみひとつでなかった。パールラヴィは俺が仲間を見捨てたことをなんとも思わないのか、みたいなことを言った。なんとも思わなかった。助けられたなら助けたさ。
「上役になんて説明するつもりなの」
「ありのままだ」
俺はそう言った。言葉を使うなら、ありのままを言うのがいちばんいい。これは親父が教えてくれたことだった。騙しても結局ろくなことがない。誇りに傷がつくばかりか、後で必ず自分のためにならないんだ。親父はそう言ってた。俺はなにも鵜呑みにしてるわけじゃない。同感だってだけだ。
パールラヴィを宿屋に残して、俺は船に戻った。キャプテンに報告した。キャプテンは大麻パイプの煙を吹き飛ばしながら激怒した。無理もなかった。
「おまえは仲間を裏切ったわけだな」
おいおい爺さん、さっきから言ってるじゃねえか。
「違うよ、だって仕方がないじゃねえか。向こうは甲板員だけでもざっと100人はいるんだぜ。戦いようがなかったよ。あんたまさか俺に死んでも戦うべきだったっていうのかよ。生きててこそ立派なことができるんじゃねえか」
「黙れ。刑罰は勘弁してやるがくびだ。二度と俺の船に乗るんじゃねえ」
キャプテンは冗談とは無縁だった。本気で俺をこのウォッカとトドの干し肉以外になにもない極寒の貧村においてけぼりを食わすつもりだった。
「キャプテン! あんた正気かよ。俺、金もそんなに持ってないしよ。凍え死んじまうよ!」
「氷の海を泳いだんだろ? だったら大丈夫だろ。白熊に食われないかぎりな」
キャプテンの息子のイアンだ。こいつは昔から気に入らなかったけど、この一言にはかちんときた。こん身の拳骨をくれてやった。やつはすっ飛んで鼻血を出しながら絶叫した。
「奴を捕まえろ! 耳をちょんぎってほっぽりだせ!」
俺はキャプテンの側近どもに押さえつけられ船から放り出された。幸い耳はちぎられなかった。それどころか俺の知り合いの平航海士たちは俺にトドの毛皮を三枚と、大麻を少し分けてくれた。俺はそれを大事に脇に抱えてパールラヴィがいる宿屋へ帰った。いつもに増して風が冷たい日だった。
宿に帰ってパールラヴィと相談した。夏はまだ二ヶ月も先だし、こんな僻地には船も滅多に来ない。だいたい、あの血も涙もない海賊船がこの街を襲いに来るかもしれない。でもパールラヴィはそれはない、と言った。
「あの船はエネツ人の街を襲いに行くのよ。トナカイの毛皮が欲しいのよ」
つまり、トナカイを飼ってもおらず、トド狩りと野性のトナカイ狩りだけで暮らしてるようなこんな街には用はないってことだ。港に入ってきたのは俺たちの船を襲って食い物を奪おうとしていたからだと言った。
「でも、どうするのよ」
俺は考えた。こんなところでくたばるわけにはいかない。俺もパールラヴィも、絶望したのはほんの一瞬だけだった。なんと言っても、俺たちは信頼しあっていた。まあ、ひとまず食い物のことを考えなくてはな。
俺は赤毛のエディのことを思い出していた。あいつの赤い鈎鼻を思い出し、あいつの言っていたことを考えた。そして俺はここに来るまでに見た、まるまると太ったトドの群の情景を思い描いた。エディは言った。
「トドは最高の獲物さ。肉の量、毛皮の品質ともに申し分ない。それにトド狩りは人間に勇気を教えてくれる。生きるってことの意味をな」
初め俺にはエディの言っていたことがぴんとこなかった。だがなエディ、いまの俺にはおまえの言わんとしていたことが、ようくわかるぜ。
「仕方がねえ。トドでも狩るか」
俺は言った。パールラヴィはさすがに目を丸くした。
「トド狩りですって?」
「それしかねえ。この辺の連中はみんなトド狩りで食ってるんだろ? その漁師仲間に入れてもらうんだな」
「面白そうね。私もやりたいわ」
パールラヴィは笑っていた。彼女の勇気は見上げたものだけど、こればかりは感心しないな。
「馬鹿言ってんじゃねえ。トド狩りってのは過酷な仕事なんだ。命がけなんだぞ。おまえはここでおとなしくしてるんだ」
いろいろなだめすかしたんだけど、結局彼女は聞き分けなかった。
俺はひとまず、船に乗ってたころ小麦を売ったギルドへ行った。ここのネネツ人は英語が多少話せたからだ。パールラヴィもついてきた。まあ、宿屋にいてもやることもないからな。彼女は退屈が嫌いだった。
ギルドは酒場をかねてて、俺たちはウォッカを頼むと、覚えがあるばかでかいネネツ人と話した。彼は素晴らしい偉丈夫だった。堂々とした体躯は、ホッキョクグマとでも対等に渡り合えるのではないかと思えるほどだった。名をワウリといった。年は三十くらいかな。とにかく、立派な体をしていた。トドを何百匹と捕ってきたと見えるほどに。
「なあワウリ、俺はトドを狩りたいんだけど、なにかつてはないもんかな。おまえ漁師の仲間はいないのか」
ワウリはびびってた。目をきょろきょろさせて、俺と話すことなんかないと言いたげだった。
「いねえ。トド狩りなんかおらたちやってねえ」
「嘘言うない。おまえたち毎日トドの肉食ってるんだろ? なんだよよそ者にトドを捕ってほしくないってことか」
きっと、そういうことなんだろうと思った。ワウリはしばらく黙ってたけど、根が正直なんだろう、腹を割ることにしたようだ。
「んだ。外人にトドなんか捕らせると鬼神が怒るだ。おらたちの食うぶんまで全部食っちまうに決まってるだ」
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu