Ramaneyya Vagga
トド狩り
はじめに
この小説でトドと呼ぶ動物は、たぶん現代ではセイウチと呼ぶ海獣だろう。ロシア語でセイウチをSivuchといい、これはトドの意である。現代トドと分ける海獣は北太平洋、アリューシャン列島からカナダにかけての沿岸に生息し、一方セイウチは北極海に面するシベリア沿岸にも生息している。また、この小説は大航海時代後期の物語だが、このころネネツ人が大麻を用いていたかはわからない。
ワウリ・ピエットミンはロシア人の搾取と戦ったネネツ人の英雄だが、この小説に登場するワウリとは別人である。とはいえこの小説のワウリが、ワウリ・ピエットミンの祖先であるとして読んでもらってもかまわない。
親父は偉大だった。インド洋でスペイン船と戦って死んだ。俺は生まれたときから船乗りだった。なんといっても、四角帆船なら仕事っていえば二ヶ月に一回の荷物の引っ越しくらいなんだからな。やめる理由も見あたらない。ポルトガル生まれの俺がシベリアまできて仕事に精を出しているんだ。これだけでももう合格点だろ? 全智の神さま。
ゴアからディリを回る航路が気に入ってたんだけど、女のことで上役とちょっとあって具合が悪くなった。あの辺の海はきれいだからやめたくなかった。でもそのころ俺がディリで知り合った赤毛のエディってやつはシベリア回りの船に乗ってたときの話を聞かせてくれたんだ。
「氷が張っちまえば動けないからな。もうそれから一ヶ月はなんにもしなくていい。氷が溶けるまでトドでも狩って楽しくやるんだ。鯨も見れるしな。なかなかいい船だったぜ」
聞けば報酬もまずまずだし、俺はすぐにエディの乗ってたイギリス船に乗るためロンドンへ行った。トド狩りなんかはまあいいんだけど、俺は本を読むのが好きだったから、氷づけ休暇の話にはよだれが出た。シベリアのネネツ人やロシア人にワインだの小麦だのを運び、トドやトナカイの毛皮なんかを積んで戻って来る船だった。
まあなんにせよ、俺は東シベリアまでたどり着いて、エディの話通り、港が凍った寒い街にいる。副長のチャールトンは陸に上がるとまず女を買った。三日の契約で。キャプテンは寝込んでた。彼はもう六十を超えてるからこんな航海は無茶なんだ。キャプテンの息子で測量技師のイアンは一日にワイン二瓶飲んでた。下っ端の俺たち航海士にはワインなんか滅多に買えなかった。街の酒場にあるし、給料を全部ワインに買えてるようなのもいたけど、俺たちはウォッカを少しと、大麻があれば良かった。
持ってきた本も全部読み終わって、さてなにしようかって思ってたら、フランスの最新型の破氷帆船が港に突っ込んできやがった。途中までは連中も大丈夫だと思ってた。フリゲート型の、堅固な鉄板に固められた船体は、確かに見事な推進力を持っていた。氷を砕いて港を進んだ。
ところが風向きが変わったんだ。南無三といまさら言ったってもう遅い。連中は完全に氷に閉じこめられた。俺たちはボルドー産の最新破氷フリゲートの無様な氷づけを見て、あのまま美術館に飾るべきなんじゃないかとか、ワインを積んでるだろうから三日後には船員は全員アル中だろうとか、さんざんに冷やかした。一晩たってキャプテンは救助隊を組織した。
「アーナンダ!」
って副官のチャールトンは大声で怒鳴った。俺の名前だ!
「おいチャールトン、俺はごめんだ。あいつらどうせ食い物だってしこたま積んでるんだろうしワインだってあるだろうな。もうじき氷だって溶けるんだろうし、放っておきゃあいいじゃねえか」
「アーナンダ! 文句があればキャプテンに直接言え。俺は名簿を読んでるだけだ」
くそう、こいつは話にならねえ。冗談じゃない。この氷の海を砕いてあんなとこまで船を漕ぐなんて気狂いか昔のギリシャガレー船でない限り無理だ。
ところがキャプテンもチャールトンも本気だった。真剣だった。ほんとに俺たちの船のガレーを使うつもりだった。俺たちはトドの毛皮で身を固め母船からガレーを切り放す作業をやらされた。俺と同じポルトガル人のファサルはびびってた。
「冗談だろ? 海を見ろよ!」
「あいつらは本気なんだよ。覚悟を決めろ」
俺は奴にそう言ってやった。ロープをほどくことに集中すれば寒さはなんでもなかった。
十二人漕ぎの四の二。それが俺の仕事だった。みんなウォッカをちょっと飲んで、それから大麻を吸った。俺は俄然やる気になってきた。よくよく考えればなかなか味な仕事だ。女に一発かましてやるのとそうかわらないじゃないか...こんなふうに考えを切り替えることに俺は必死だった。つまり俺はファサル以上にびびってた。木造ガレーで氷の海に乗り出すときの人間は、必ず気狂いになっているもんだ。
チャールトンは音頭をとった。奴だってこんなことははじめてに違いない。鯨捕りの歌しか知らない。
「鯨を突いて!」
俺たちは声を合わせる。
「鯨を突いて!」
「海に出るなら!」
なんだよ鯨だってこんな氷づけの海はいやがるもんだぜ。
「海に出るなら!」
「女がいる!」
「女がいる!」
「俺たち船乗り!」
「俺たち船乗り!」
さっきから必死で漕いでるんだ。みんなも真剣だった。なにしろ自分の命がかかっていた。氷を割るチャールトンの姿が目のはしに入った。俺の前のファサルが絶叫した。
「もう駄目だ!」
そう言いながらファサルはかなり見事な漕ぎっぷりを見せていた。チャールトンもなかなか慣れた動きで破氷銛を突いていた。俺は何も考えないことにした。バラナシにいるっていう俺の母親のことを除いてはな...俺の両親は船の上でセックスしてた。俺のお袋はインド人だ。顔も覚えてないけど、たぶんまだ生きてるだろう。ずいぶん探したけど見つからない。まあ、そのうち会えるだろうと思っている。そのときのために、俺は立派な人間になるべくこうしてがんばっているんだ...
たっぷり四時間、ガレー漕ぎの仕事は続いた。ブルボン王旗が間近に見えてくる頃には、俺はもう失神しそうだった。ファサルは実際ぶっ倒れた。そうしてフリゲート船になんとかとりついた。
俺たちはこの船のタイプについて知らないわけではなかった。どっからどう見ても戦艦だ。でもいざ甲板に上がってみると、こいつは筋金入りの、戦闘艦だった。甲板だけでもざっと二十門はあった。船の両側にはさらに四十門ほどあるはずだ。おまけに船員たちはフランス人には見えなかった。フランス語も一言も聞こえてこなかった。こりゃどうも妙だ。俺たちの相手をしてる男といえば、どっからどう見てもムーア人だし、英語もイスラム訛りだしな。
「よく来てくれたな。ブルボン万歳!」
白々しい野郎だ! 俺はとっくに気づいていた。こいつら、本物の海賊だ。本物ってのは、襲った船からは一枚の金貨も残さず、襲った街からはひとりの女も残さない奴らのことだ。こいつはいよいよのっぴきならねえ。
「海の男はみな兄弟だ。食料を持ってきた。受け取ってくれ。これから氷海を渡るためにできる限り手を貸そう」
チャールトンは気のいい船乗りを気取ってた。のんきなこと言ってる場合じゃないぞ、はやく逃げる手だてを考えないことにはな。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu