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Ramaneyya Vagga

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禁欲


 恋人が、妻が、俺の前で泣いている。なにを言うでもなく、ただ泣いている。
 彼女と一緒に暮らしてもう5年にもなる。籍も一応入っているが、俺たちは、たんに一緒にいるだけだ。もともと旅先で知り合ったからか、俺たちの旅は、いつでもハネムーンだった。ふたりとも憧れていたインドへやってきた。
 そこで、このざまだ。
 インドの山奥。静かな温泉村。温泉は、世界のどこにあっても、同じ景色を作る。情緒をつくる。ふたりでポットでも吸って、温泉に入って、いったいどんな災難が起こるだろう。火事も地震も、人にふりかかる確率というのは、実はまったく低いものだ。まして、ここには車もほとんど走っていない。安全で、平和なのだ。人への災難というものは、おしなべて人災なのである。酸性雨にしたって、洪水にしたって、地震にしたってそうだ。そうして、人への、直接の、人による攻撃というものは、こうむる確率は、ほとんど不可避なほどに、高いのである。
 俺にはほとんどなんの意図もなかった。日本人の男が、コテージの脇を歩いていた。目があった。挨拶して、ポットでも吸うかい、などと言った。
 意図があるとすれば、俺は、女連れの旅人に顕著な、排他的な立場に、自分をお置きたくなかったというのがある。それだけのことだった。なにも期待しなかったし、なにも不安を感ずることもなく、俺はまったく堂々と振る舞ったつもりだった。
 それが、このざまだ。
 この男は何度か俺たちのコテージに来た。俺たちも彼のコテージへ何度か行った。そしてまるきり覚えていないのだが、妻は、ひとりでどこかへ行った。覚えていない。買い物とか、散歩とか、どこへ行くかなど気にもしないし、気づきもしなかった。
 数日してこの男は他の町へ行った。
 それから二、三日して、今日のことだが、なにかの話のきっかけに、妻は、その男と寝たと言うのだ。
 俺にはさっぱりわからなかった。信じがたかった。信じられない理由が、いくつもありすぎた。まず妻がにこにこ笑っていること。「なんや知らんかったんか」などと言っている。
 「嘘だ」
 「ほんまや」
 「とんでもないこと、してくれたね」
 俺が困りかねてそう言うと、妻は、ふっと笑うのをやめて、泣き出したのだ。なぜ泣くんだ? おかしいじゃないか。寝取られ男の俺が泣いて、してやったきみが、ほくそ笑むのが、順番にかなっているんじゃないか? 俺は正直泣きたかったのだが、妻が泣いているので、そうするわけにはいかなくなった。
 まったくとんでもないことをしてくれた。
 俺はまったく、自分で自分を、ほとんど完璧な男だと思っていた。俺は作家になろうとしている。日本語の文学でオピニオンリーダーたらんとし、人類の英知を受け継いで、歴史に、伝統に名を連ねる名作を書いてやろうと思っている。そのために学問に励んできた。成果もでてきた。高名な作家に推薦されて、出版社のつてもできた。このインド旅行中に書いたものが気に入られれば、めでたくデビューするはずなのだ。さらには俺は商売女を買ったこともなく、寝た女は、この美しい妻ひとりきりだ。童貞をささげ、妻に忠誠を誓うなどというわけではないが、他の女と寝たいとは思わなかった。俺の経歴はまったく誇るべきもので、俺はそれを自負としていた。それが、これだ。いま俺は突然、地獄に堕ちた。俺の誇りは地に落ちた。恥ずかしくてだれにも顔を見せられぬ。思わず俺は部屋のカーテンを閉め、ドアに鍵をかけた。
 ジョイントを巻いて吸う。妻にも勧める。彼女は首を振って泣き止まぬ。
 俺は考える。これはいったいどうしたことか。
 たしかに、俺は妻を軽くあしらってきた。6歳も年上の彼女を、少女をあやすように、あつかってきたかもしれぬ。それで彼女の誇りは、少しずつ、長いこと、傷つけられていて、そうして、俺にも、同じレベルの侮辱を与えようとしたのだろうか。たぶん、そんなところだ。しかしそれはこのさい、いいのだ。もはや終わっている。
 俺がどうするかだ。
 「ねえ、どうしてきみはここにいるのだい? おかしいじゃないか」
 「どうしてって?」
 泣きじゃくりながら妻が答える。どうしてってねえ...
 「あの男に惚れたんだろ? なんで、ここにいるの?」
 まったくここでも俺は幼い子供をあやすようだ。
 「え...」
 「なんで、あの男と一緒に行かなかったんだ? おかしくないか?」
 そうすると妻はまた泣くのだ。駄目だ、らちがあかない。妻を責めてもなにも戻らない。もはや終わっているのだ。
 無思慮に遊ばれた女をこれから連れて歩くなどできっこない。死んだほうがましだ。死ぬ? 自殺か...寝取られ男が自殺してしまっては、恥の上塗りじゃないか。だいたい、俺には仕事がある。この道は駄目だ。
 では復讐か。あの男を探し出してなにかする? 反吐がでる。顔も見たくないし、見られたくない。放っておくのがいちばんだ。
 妻への復讐なら、他の女と寝ればよいか。しかしそれで俺の汚辱がそそがれるか? 無理だ、そんなことでは焼け石に水といったところだ。
 腹が立ってきた。そりゃあ俺がいたらなかっただろう。でもこんなの、恥ずかしすぎる。どこかへ逃げなくては。この村に滞在してもう一月にもなる。村のみんなの顔を知っているし、みんな、俺たちに会えば、挨拶し、握手してくれる。こんなところには、もう一日だっていられない。
 ベッドの上の、妻が泣いている脇に、地図が置いてある。ふたりで次の滞在地と決めた、ヒマラヤの入り口、リシュケシュ周辺の地図だ。かの地は禁欲の聖地で名高い。ヨーガと菜食。その地へ入った者は、なかば強制的に、しかし自然と、出家者のような、禁欲生活に入れるそうだ。聖地だ。
 俺は思いつく。昔から、レイプされた女は、尼さんになるのが習わしだ。映画とか、講談本とかで読んだ。考えてみれば、妻を寝取られるというのは、夫にとって、自身が犯されるようなものだ。なぜと言って、抵抗できない。
 もうひとつ思いつく。安部定のことだ。妻を見る。俺は彼女をなじりたくなる。俺になにか気づかせたいのだったら、こんなみっともないありきたりのやり方じゃなくて、俺が寝ているうちに、俺のあれを噛み切ってくれたら、まだかっこよかったのに、と。友達にも自慢できる。だれにも誇れる。
 ナイフはある。リンゴやパパイヤ用にと、市場で仕入れたものだ。安物だが、なんとかなるだろうと思う。
 ふん...俺の勇気を、誇り高さを甘く見るなよ...売女め、浅はかな寝取り男め、このくらい、やってみせるさ...きみたちと違って、俺は崇高な志を持った、男らしい男なのだ。あんなもの、俺の仕事には関係ない。それどころか、まったく邪魔だね...ナイフをとる。どきどきする。頭にそのさまを描く...だめ、馬鹿らしい。ちょっと違うぞ。痛い思いをしてまで、こんな女に、なにを思い知らせるというのか。こんなことをしでかす女が、俺があれを切り取ったところで、この先、男を求めぬだろうか。違う。彼女のことは知っている。彼女は、もっとしたたかで、もっといいかげんなやつだ。だいたい、恐い。あれを切るなんて、恐ろしい痛さに違いないし、血が出すぎて死ぬかもしれない。それはならぬ。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu