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Ramaneyya Vagga

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 しかし彼は凍りついた。彼の目は、すぐに、人間の、臆病で卑屈な、へつらう人間の常の目に戻った。
 「クムラン参りもいいが、エルサレムへ急がねばならん」
 ヨシュアが、崖道に立って、陽に照らされ、潮風を集めていた。ユダはぎょっとしてみじろぎもならぬ。
 「私は...ヨ、ヨシュアさま...」
 とどもるばかり。ユダは、ヨシュアを妬むこと深いというのに、彼の前では、小さくなることしかできない。虎と鼠か。いや、ユダが、小人というだけのことだ。
 「おまえは私の弟子だ。もう二度と、私のもとを離れるな。今回は許す」
 そう言って歩き出す。ヨシュアは思う。
 (わからん...ルチフェルなのか...ユダを使うのか、このような小人をなぜ...クムランが変わるのはよい。だが...あやつの手を借りるわけにはいかん)
 葛藤していた。ユダはそのような師の葛藤を知らない。ただ膝を落とす。おびえながらも、彼は誓う。
 (おのれ...許すだと...見ていろ...次こそ...)
 屈辱に耐え、師の後を追う。


 4 なにを戸惑う?

 アーシュラムの色が変わる。色づく。夜のうちに、荷物をまとめてロバとともに窟を出る者がいる。ふだん快く思っていなかった者の家から、パンを盗む者がいる。女を寝取る者がいる。諍いが起きる。禁忌は、日常的に犯された。
 アーシュラムに以前の静寂、聖化された空気はなくなった。守人衆は突然忙しくなった。諍いを、威圧や、暴力によって静めることも多くなる。そうすると、ますますアーシュラムに響く音が、大きくなる。もはや、禁は破られたのだ。
 「こうも、もろいものかの」
 司長は窟のなかにあって、自らの無力をさげすむ。
 「わしが、もう少し若ければ...いや、リアムに、もっと早くに、譲っておればよかった」
 独り言のように、目の前のアンデレにつぶやく。
 (これは、人の仕業なのか)
 アンデレには、あのイスカリオテのユダの来訪だけで、こうまでアーシュラムが乱れてしまうことが、いぶかしく思われた。あの男の、紫の目。それに、アンデレの吹いた矢は、ユダに致命傷を与えたはずであった。だのに、あの男は、無事に崖を降りた。
 「司長さま...あの男、堕天使の使いだったのでしょうか」
 それで司長にそうたずねるほかなかった。だが司長は答えない。沈黙して、アンデレの目を見据え、それからまた、黙った。
 (滅びるのか)
 アンデレはうつむく。神々の前に人は無力である。悪魔に魅入られて、それに打ち勝つことができるのは、堅固な聖人くらいなものだ。うなだれるアンデレに、司長はようやく口を開く。
 「アンデレ、おぬしも老いたな。気を落とすのは、その時になれば、いくらもできる。クムランには若い者はいくらもおるぞ。リアムと、あの娘、セフィーと言ったか、あれは、強き、新しいクムランびとじゃ。主は、あのように美しい若者たちを、無惨に滅ぼすかな。わしは、そうは思わぬ」
 (リアム...)
 アンデレは、ここのところ、忘れていた。リアムはすでに、クムランの新しい長となる指名を受けているのであった。リアムの、何事にも動じず、常に怜悧なままのその若い心を思い出す。ジョセフィーヌの、無邪気で活発な若さを思い出す。
 (若さか...ふ、わしには、もう残っておらぬ。死にゆくわしが、気に病むことはあるまいな。任せればよい)
 そう思う。こみ上げる曇った念は、それで少し晴れた。
    ★
 イスカリオテのユダが師を売ったのは、クムランに行ったあと、エルサレムに着いて、しばらくしてからのことだった。
 ヨシュアは、エルサレムの街頭で、声を張り上げ、歩きに歩いた。それは、エルサレムで私腹を肥やす祭司たちへの、妥当な、しかし激しい、糾弾であった。憲兵が差し向けられる。ヨシュアと弟子たちは逃げ、潜伏する。また街頭に現れ、祭司をなじり、臆病で偽善的な市民たちをもなじる。憲兵の監視をくぐり、また現れること神出鬼没だ。手配がかかる。賞金がかかる。そこでユダは、憲兵たちに、自分たちの居場所を密告した。
 最後の晩餐がとられる。ヨシュアは自らの死を臭わす。弟子たちは嘆く。ヨシュアは、ユダの目を見る。ヨシュアの目には、恐怖も、責めるそぶりもない。ユダには目を見返すことができない。おどおどと、ただテーブルの上の、ちぎられたパンと、葡萄酒を見つめる。
 (これでも、まだ動じぬか。俺を、さげすむのか。恐いくせに、恨んでいるくせに...)
 そう小人らしい意気を張る。ヨシュアには、ユダの裏切りは、予測できたことだった。期待していたとも言える。しかし、解せぬことはあった。
 (この男に、こんな意気地があっただろうか。妬むことはできても、なにも行動することができない男だったはずだ)
 そのはずだったのだ。だがいま、自分は売られた。明日、捕らえられ、さらされ、架せられる。
 (ルチフェル...これで私を捕らえたつもりか。私がおとなしく、死ぬと思っているのか。まだ、早かろう)
 堕天使を見ようと、ヨシュアはユダの目を見る。しかし彼はうつむく。その主人の意をうかがわせることを、拒絶している。
 ヨシュアははじめて、不安を感じた。晩餐を抜け、厠へ立つ。この、純朴なパン屋が提供してくれている、小屋を出て、星空の下へ出る。星を見上げて兆をさぐる。霊感をさぐる。
 (捕まったとて、逃げればよい。それとも、逃がさぬというのか? 私は、死ぬのか? 馬鹿な、まだ早い! 私に罪はなかろう?)
 天に問う。答えは聞こえない。目を戻す。森がある。そこに、女がいた。白いローブを着て、腕をたらし、垂直に立って、自分を見つめている。その目は、ことさらに見開かれているようで、しかし、自然に、大きく開かれていた。
 (人ではない)
 ヨシュアは直感する。なにか口に出したいが、なにも心に浮かばぬ。女がゆっくりと、唇をひらく。
 「ナザレのヨシュア。汝は誤った」
 声が通る。それだけ言って、女はきびすを返し、ゆっくりと、森の中に去った。
 ヨシュアは驚愕する。口を開け放つ。足がふるえ、耐えきれずに、地にひざをつく。
    ★
 それでクムランの司長は夢のうち、風の吹きすさぶ丘へ飛んだ。ナザレの、あの男が、十字架に架けられて、風に吹かれ、風に肉を吹き飛ばされ、骸骨となる。やがて槍を持った、黒いローブを頭からすっぽりかぶった男、いや性などわからぬ、人かどうかもわからぬ者が、司長に背中を向けたまま、ナザレびとの骸骨に、槍を突き、脇骨を貫く。そうして、振り向く。紫の目の、山羊の角のある面を司長に向け、薄く笑う。振り向かれた司長は、星の位置から、自分が、クムランの位置にいることを知る。驚愕してもがく。床から飛び起きる。
 「アンデレ!」
 窟の脇に控え、眠るでもなく起きるでもなくただ気を張っていたアンデレは、常にない司長の声に、直感した。
 (終末か...残酷だ)
 思いつつ、司長に答える。
 「はっ」
 「リアムを呼べ」
 蒼白な面で目を見開く司長は、窟の土の天井を、暗闇に包まれているのだが、そこを睨んだまま、それだけ言うことができた。
 うなづいて即走る。夜の暗闇を、窟の狭道を駆ける。
 (リアム...おぬしにかかっておる)
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu