Ramaneyya Vagga
アンデレは走る。刀を、ヨシュアの背中に突く。しかし突けなかった。ヨシュアは、空を舞っていた。アンデレが仰ぎ見るに、その姿は、太陽を背にして、その光を、一身に集めているようであった。ヨシュアが一瞬に腕を振り針を投ずる。アンデレは飛んだが、右の脇に針を受けた。
「さらば」
「待て」
アンデレは倒れながら吹き矢を吹いたが、ヨシュアは一陣の風とともに空を駆け去ったので、その矢は、ただ太陽めがけて飛び、届かずに、地に落ちた。
★
「小者か...」
アーシュラムの土塀に伏せて、その男を見たアンデレは、つぶやいた。
(つまらぬ)
内心、あの男、ヨシュアと再び出会うことを、望んでいた。アンデレはもう60歳をすぎていた。壮健なうちに、いまいちど、彼とまみえたかった。しかし、思い直す。首をふる。
(厄を招こうなど、不敬であったな。わしは守人じゃ。阿修羅ではない)
そうして守人のひとりに命ずる。
「はじめに何者なのか探れ。そうして追い払え。殺すな」
守人はうなづき、土塀が切れるアーシュラムの入り口で、男を呼び止める。
「待て。名乗りなさい」
するとこの、水やパンくずでも入っているのだろう、麻袋を背負った男は、唐突に、割れんばかりの大声で笑い出す。そうしてから、睨みつけている守人の目を、正面から見返して、しばらく黙ったあと、
「イスカリオテのユダ...ナザレのヨシュアの高弟である」
と言う。守人は緊張する。ナザレという語に、緊縛を受けたかのようになる。彼も長くクムランを守ってきた、経験の深い守人のひとりだ。10年前の、ナザレびとのことはよく知っている。
「何用だ」
との問いに、この、ゆがんだ笑みを絶やさない男は、ことさらな大声で、
「主の真の教えを届けにまいりました! 当地は世間で噂される秘密の聖地と言いますが、その秘密の教義を聞いたものなど、ひとりもおりはしません! おおかた、当地で特権をすする老人たちの流した、不徳なでまでありましょうな!」
この大声を聞いて、アーシュラムの者たちが仕事の手を休め、家の外へ出たり、畑に鍬をおいて走ってきたりする。アーシュラムの静寂はもはや破られた。静寂は、聖化をなす禁のひとつだ。それはすでに破られた。
土塀に身を伏せながら、アンデレは舌をうつ。
(ぬかった、ただの小者ではなかったか。こちらが目的...)
懐中の吹き矢を握る。
「もし真に当地に秘密の知識があるのなら、イスラエルの王、マシーアハであるわが師に、それを進んで差し出すべきでありましょう! 差し出していただきたい! ああ、しかし、そんなものは、はじめからないのでしたね!」
ユダは、なおも叫び続ける。守人が見るに、その目は、紫色に、みるみる染まっていく。
(この男...なにか憑いておる)
守人はそれを見て取る。手の内に針を握る。
クムラン・アーシュラムの伝説。秘密の教え。それは、クムランびと自身には、もちろん、充分に知られている。親から子へ、語り継がれる。イスラエルの伝統の守護者である誇りを植えられるのは、成人、もしくは結婚の儀のときだ。神秘的に、秘儀的にではあるが、大人はみな知っている。しかし、それは、秘密のことだ。誰もそれについて話したりはしない。ただ知って、受け継ぐだけでよい。だから、ここでユダが叫ぶのは、不敬である。彼は禁忌を犯している。だから、アーシュラムの人々は、注目する。人が人を呼び、次々に、この東門に、人が集まってくる。
(ふ、田舎者を呼び集めるなど、実にたやすい)
ユダはほくそえむ。守人には目をくれない。視線をやるのは、集まった者たちのほうだ。なおも勢いを強くして叫ぶ。
「ああ、クムランの純朴な羊たち! 痩せて、慈愛を知らぬ、穴蔵に飼われた、不憫な哀れな子羊たち! 窟を出よ! マシーアハに、わが師に続きなさい! 王は、湖を歩き、いかなる病もいやし、パンを増やされました! 窟を出て、私とともに山を下り、町へ出なさい! あなた方は新しい真実を知るでしょう!」
(姑息じゃ。あやつの弟子らしいわい)
憤って、アンデレは土塀の影から矢を吹く。ユダの右の腿に矢が立つ。
「ああ...主よ!」
ユダは腿を抑え、芝居がかったやり方で天に手をさしのべ、そのまま倒れる。足を引きずる。
(まずは、これでよいか)
と内心でほくそ笑む。
「おのれ、背信の徒ども! 主のいかずちが、汝らを襲うであろう!」
とわめきながら、逃げ去った。
リアムもジョセフィーヌも東門へ来ていた。リアムは倒れる男を見て怪しんだ。
(人か?...そうなら、ナザレびととは、かくも邪悪なのか)
ジョセフィーヌは女性らしい意気の張り方をする。
「ふん、パンを増やしたですって。パンなんか、私のお父さんとお母さんが、毎日焼いて、増やしてるわよ。もう何十年も、毎日毎日、増やしているわよ」
リアムは笑った。
「その通りだ。セフィーのご両親のほうが、マシーアハなんかより、ずっと偉い」
ふたりはそうして笑ったのだが、アーシュラムの者のなかには、そうしなかった者も多かった。静寂は、ユダがやってきたときに、すでに、かの者が破ってしまったのだ。
「マシーアハ...」
「本当なのか...」
「えせだよ、またぞろ...」
「病を...」
「パンを増やした話は...」
ざわめいた。ナザレのヨシュアの噂は、風に乗ってか、人によってか、いずれにせよ、ユダが来るまえから、少しずつ、アーシュラムにも届いていたからだ。その日を境に、アーシュラムは、確実に、以前とは違った空気を宿すようになった。聖地は、疑えば、即、聖地ではなくなる。
アンデレの報告は、司長をいぶかしめ、憤らせた。
「ナザレびと...見過ごすか。堕天使の手を借りるか...主は、なぜ見過ごすのか...」
と天を仰ぐ。この日、クムランはまたひとつ年を重ね、老いた。
イスカリオテのユダは崖道を降りている。痛むはずの脇腹は、まったく痛まないし、血も、すぐに干上がった。
(主は我とともにあり)
と彼は疑わない。
(これが証拠だ。俺こそ、王になるのだ。見ていろ...青二才)
脇腹を探る。やはり傷も痛みもない。笑いがこみ上げてくる。
なにかに突き動かされた。ガリラヤでの、ヨシュアの困惑。クムランになにがあるのかは知らぬ。しかしここは、ヨシュアの弱みであるらしい。クムランの禁を破り、静寂な聖地に混沌を持ち込めば、ヨシュアの計画は狂うはずだ。頓挫するやもしれぬ。そう考えて、ユダは、朝のまだきに、空を見ていた。明星が見えた。そのとき、ユダは霊感を得たと感じた。明星は、クムランの方角にあった。
そして一行を抜け出した。ヨシュアに置き手紙を書いた。
明星より宣あって母の身に何事かあるよし。我追ってエルサレムにてまみえん
そのように。
(虚とは実に便利だ。信じれば、信じられる。虚はたちまち真実となる。虚であったものは、運命にてらされて、たちまち真実となる)
ヨシュアを出し抜いてやったことが愉快でたまらないといったように、彼は笑う。不気味に、紫の目になって、笑うのだ。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu