Ramaneyya Vagga
「ようし、それ」
ヨシュアはかけ声をかけ、パンをその麻布の上へ放り投げる。すると空中でパンがいくつにも分裂し、まるで爆撃機から爆弾が散布されるように、麻布の上に、どうどうと落ちていった。
これには村人、あっと驚き、ついでやんやの大喝采と、号泣する女の声が続いた。
「うーん、曲芸師というのも、けっこう楽しいものかもしれないね」
などと、ヨシュアは弟子たちに冗談を言った。ヨシュアも弟子たちも、この宴を、それなりに楽しんだ。
さてそれからヨシュアは土を盛って高くした座に座らされ、村人たちの質問を受けることになった。こちらのほうが彼の本職であるので、彼も熱心に、村人たちに説いていった。
幾人めかの質問に、ヨシュアは、とまどった。その質問者は、こぎれいな白い木綿のローブを着た、ヨシュアと同年齢ほどの、つまり30ばかりの、小さな男であった。
「ヨシュアさま。あなたは若い頃、どうしてナザレをお離れになったのですか」
そう問うのだ。ヨシュアはしばらく沈黙して、困ったように、
「え...個人的な話題かい...いや、ここのみんなに話すようなことじゃないよ」
「当時、クムランへ行かれたと聞きました。かの地は閉ざされた聖地。なにをしに行かれたのですか。そこでなにがあったのですか」
ヨシュアはこの男の目を見る。のぞき込む。気を探る。
(ルチフェル...ではない。では...エルサレムの使いか。厄介なことをしてくれる)
「かの地にはいまだ明かされぬ神の秘密の教えがあると聞きます。それを聞かれたのですか。聞かれなかったのですか。それを聞いていないとしたら、あなたは、誰に油を注がれたのですか。神ではなく、どこかの使い女にですか」
(この宴を壊したくない)
ヨシュアは村人と、弟子の様子を見渡す。さきほどまで幸福に満ちていたみなの顔が、怪訝そうな、あるいは、疑いを含んだ目になってしまった。
(やれやれ、悪意とは、かくも強い。猜疑とは、かくも力がある。私ひとりには、とても手に負えぬな)
ヨシュアは含み笑んだ。そうして口を開いた。
「ないだいそれ。初耳だね。クムランなんて、行ったこともないね。たしかに、秘密の聖地だなんて噂も聞くけど、まあでまだろうね。あんなところ、ただのひなびた羊飼いがいるだけじゃないかい。あまり噂を鵜呑みにしないことだ。それにさっきから言っているが、私はマシーアハなんかじゃない。あいにく、つまらない山伏でね」
「しかしクムランのことは、もう長く、語り継がれています」
(しつこいな...)
ヨシュアは短気なほうだった。短気というか、物事を即行い、即結果を見るのが好きなのだ。
(いっそ、今日は曲芸師になりきるか)
それでそう決めた。がばりと立ち上がる。憤怒する。
「去れ、魔王よ! もはやいかなる悪魔もイスラエルびとを騙すことはできん! このヨシュアがここにいるかぎりな! みなのもの、魔王じゃ! そやつを打て! 打って村から追い出せ!」
と怒鳴りつける。これにいきり立ったのが、田舎者らしい純朴な信心深さを身につけた守人である。
「とんでもねえやつだ、マシーアハに食いかかって村のみんなをたぶらかそうなんざ、このわしが許さんぞ」
と怒ると、樫の棒を手に魔王と呼ばれた小男に踊りかかり、村の他の男どもとともに、ヨシュアに言われた通り、村の外へとたたき出してしまった。
しばらくざわめきがおさまらなかったが、守人が促して、宴が再開された。リュートが奏でられ、村の娘が歌い踊った。歌劇が始まった。
遥かな 昔の
誓いの まま
娘が腕を振りながら飛び交う。
「ヨシュアさま、あの」
座っているヨシュアの傍らに近づいて、おそるおそるささやくのは、弟子のひとり、角張った顔の、イスカリオテのユダだ。
「なんだい」
ヨシュアはただ踊りを見、歌に聴き入っている。
主はまします ふたりのもとに
主はまします 月の下に
娘が足を舞わして飛ぶ。
「おそれがら...」
ユダが続ける。
離れがたき ふたりのもとに
娘が体をのけぞらせ、空を仰ぎ、手をさしのべる。
「クムランには...」
ユダがそう言うと、ヨシュアは顔をユダに向け、その目をのぞき込む。睨むかのようだ。そうしてから、
「黙れ。気分を害すな」
と小さい声ながら、強く言った。ユダは目を伏せた。
主は めぐみを 与えます
娘は腕を抱えて目を閉じる。
3 イスカリオテのユダはいかにして聖地を乱したか
クムラン・アーシュラムへ入ろうという者は、死海に沿う唯一の崖道を、S字に延々と登らなくてはならない。それは死海岸から半日は要する、厳しい道のりだ。
この道をあえて登るのは、日照りの年に呼ばれた、岸辺の百姓と、そのロバたちくらいなもので、商人も、旅人も、ほとんどここには寄りつかない。イスラエル人にとってクムランは、すでに伝説となりかけている。聖者たちが隠棲する桃源郷のように想像する者もある。
だのに、この崖道を、麻袋を担いだひとりの、行者風の男が、陽に照らされ、潮風に吹かれながら、登っていくのだ。男は、何度も足を滑らせ、泥にまみれながらも、一心に、ただ登っていく。
男は、アーシュラムへの崖道を、半分も登らないうちから、守人衆のひとりに発見された。アーシュラムから離れて、その周辺を警護する者だ。森を抜けて走り、守人衆の長であるアンデレに報告する。
「馬鹿な。早すぎる」
アンデレは思わずそうもらした。この老練の男は思い出す。10年ほど昔の、今日と同じような、風の強い、晴れた日にやってきた、眼光鋭い男のことを。百戦錬磨のこの男の、幾多の闘争のなかでも、あの若い男との戦いは、別格の強さで、彼の強靭な心に残り、影を落とす。それは、いかなる強敵にも打ち勝ってきたアンデレが、ただひとり、ついに勝ちきれなかった敵だからだ。
(あの男なのか。そんなはずはない)
アンデレは自分の初めの判断を疑った。
(兆がない。唐突すぎる。あやつなら、司長さまに宣があるはずだ)
アンデレは司長に知らせる。司長ははじめ目を見張るようにしたが、すぐにいつもの柔和な表情に戻って、
「エルサレムか、やつの徒か、いずれ、不届きな小者に違いないわい。アンデレ、汝に任せる」
と言うので、アンデレはかしこまって、アーシュラムの唯一の入り口、死海の開ける東の土塀に走った。アンデレは思い出す。
★
はじめに兆があった。冬至の祭りのさなかであった。朝のまだきに、司長は、祭りを主宰していた。月桂樹の葉を焚いていた。太陽の新生を祝うので、アーシュラムのみなは、朝日を待つ。やがて司長は、再生した太陽が、西から登るさまを幻視する。驚いて司長はその太陽を直視する。すると司長の心は、谷間のさみしい部落へ飛んでいた。そうして、いばらの冠をかぶった、髪の長い若者に出会った。
「クムランの大司教さま。おはつにお目にかかります」
堂々とした青年であった。司長は戸惑いながらも、この青年と正対した。
「なにものだ」
「ナザレの大工のせがれです」
「それが、わしになんの用だ」
「クムランの聖書を見とうございます」
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu