Ramaneyya Vagga
ジョセフィーヌは、無邪気に、上気していた。好いたこの男は、やはり、みなの言うような唐変木などではなく、アーシュラムの英雄となるべき男なのであった。少女は、わがことのように、誇らしかった。それを確かめたくて、ここまで来た。
「まあ、そういうことかな」
「すてきだわ!」
ジョセフィーヌは、はちきれんばかりの笑顔になって、リアムの、土まみれの手のひらを、同じような、土にまみれて、乾いた、小さな手で握った。それは少女の誠意による、英雄への祝福であった。
その夜はもう仕事にならないので、リアムはしかたなくジョセフィーヌと一緒に崖を下り、アーシュラムへ戻った。別れ際、ジョセフィーヌは、リアムにわびた。
「邪魔してしまいました。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げる。リアムは器の小さい男ではない。笑って、
「いいんだよ。きみは、友達だから」
と言ってやった。それでジョセフィーヌは照れくさそうに笑ったが、やはり、
「でも、もう二度と、あそこへ行ったりしません」
と、もう一度、頭を下げた。
この様子を見ていた者がいた。アーシュラムを警護する守り目のひとりだ。守人は、アーシュラムにも数人しかいない。いずれも鍛えぬいた体術、遁甲術の持ち主だ。ちなみに、守人衆の長が、司長の守役を勤める、老練のアンデレだ。リアムとジョセフィーヌを目撃した者が、アンデレに報告した。アンデレは激怒した。司長にこの件を告げた。だが、司長はなぜか、したり顔に、ほくそえむのであった。
「ほほ。どうやら、あの子が選ばれたらしいの。ま、あの子の他には、おるまいて」
などと言う。アンデレは怪しんで、
「どういうことでございますか」
「命(めい)じゃよ」
「あの娘が...」
「リアムの子か。見てみたいの。それまで、この老いた体が、老いたクムランが、持つかどうかじゃが」
そう司長は楽しげな顔をするのだが、アンデレには、にわかには信じられなかった。
それでアンデレはリアムを丘の上の原に呼び出した。
「あの娘に教えたな」
問いつめる。リアムは観念している。守人衆に露見することは、わかっていた。
「はい」
アンデレはさっと顔を赤くして、髪を逆立てんばかりにした。
「あんな小娘を、巻き込むつもりか!」
「しかし、あのような場所で、騙してしまっては、よくありません」
場所というのは、いわんや聖書を埋めた窟のことだ。つまりそこは、聖なる場所である。汚れてはならない。虚は汚れている。
「うぬ...」
「あれは、口の堅い子です」
「ふん、ませた娘じゃ。まあおぬしには、ちょうどいいかもしれん」
アンデレは、持っていき場のない、入り組んだ心境から、そんな嫌味を選んで言い、立ち去った。それから、アンデレは、ジョセフィーヌのことを口に出すことはなかった。もともと、守人の仕事の外のことだ。
★
暑い日であった。ガリラヤ。ヨルダン川中流の、湖に沿うひなびた村に、ナザレからやってきた、10人ばかりの行者たちが立ち寄っていた。彼らは、エルサレムを目指している。
村の入り口、低い、人よりも、ハイエナ避けのためにあるような土塀に、一行が近づくと、部落の守人がこれを見とがめて、
「なにものだ」
と問いつめる。先頭の、背の高い、髪も髭も長く伸びた男が、守人の目を見据え、
「救いである」
と答える。
「なんだと?」
守人がわからずに怪しむと、髭男は笑って、
「ふふ、なに、しがない山伏どもさ。少しの食べ物と、風をしのぐ場所を、貸してもらえないかな」
「馬鹿を言え。わが村は今年はひどい不作でな。山伏にくれてやるパンなど、ひときれも残っておらんわい」
「へえ...それは不憫なことだ」
「そうだ不憫なのだ。悪いな、湖で釣りでもするのがよかろう」
「弱ったな、我々は、肉は食わぬのだ」
「では木の実でも拾え」
「それもいいが、もう少し、いい方法もある」
男はそう言って笑う。背後の行者、どうやらこの長髪の男の弟子たちらしいのだが、彼らは、ただ沈黙して、突っ立っている。守人は、だんだん気味が悪くなってきた。と同時に、湖の漁師たちから最近聞いた、あるうわさ話を思い出していた。
(ナザレの大工の息子が東から帰ってきた)
「われわれにくれてやるパンはひときれもないと言ったね。だが、私は、パンをくれとは言ってないよ。貸してくれと言ったんだ」
(そいつは湖の上を歩いた)
「守人さま、パンがまったくないわけじゃないんだろ。なんなら、小麦の粒でもいいよ。ちょっとでいい、貸してもらえまいか。すぐに返すから」
(そいつは不具を癒した)
「なにその...パンを増やして、みんなで食べようと思うんだ。お礼に、この村の方々にも、パンを増やしてさしあげようと思うんだが」
(そいつはパンを増やした)
そこまで思い出して、守人は、歓喜してしまった。どもりながら、この行者にたずねるのであった。
「あ、あんた...マシーアハだな!」
マシーアハとは、「油を注がれた者」の意だ。神が使わした王、すなわち救世主だ。
「いやその...」
男は手で遮るようにする。
「あんた、ナザレのヨシュアだな!」
「うん、たしかに、私はナザレから来た、ヨシュアという名の者だが、しかし...」
すると守人は、このナザレびとが呼び止めるのも聞かずに、村に向かって駆け出して、
「マシーアハだ! 王だ! お迎えしろ!」
とふれ回ってしまった。
それでヨシュアと弟子たちは、盛大に歓迎されることになった。宴が催された。村人のほとんど全員が、マシーアハを一目見ようと、目を輝かせて広い野原に集まり、みなに葡萄酒とパンと果物が振舞われた。村の娘たちの歌と踊りが饗せられた。
ヨシュアは失笑して、リンゴをかじりながら、弟子たちにささやいた。
「やれやれ、これはたぶん、村に貯蔵された食べ物のほとんどすべてだ。どんなに食べてしまっても、どうせ私に増やしてもらえると思っているのさ。田舎の人は純朴なかわりに、欲望にも遠慮がなくっておもしろいね」
弟子たちもこらえられずくすくすと笑った。
さて歌と踊りが一幕終わると、くだんの守人、この宴の進行役のようなことを進んでやっているのだが、彼がヨシュアのところへやってきて、手をもみ合わせてもじもじしながら、
「あの...マシーアハさま...」
「よしてくれよ。私はヨシュアって名前を、親父にしっかりもらってるんだ」
「その...ヨシュアさま...そろそろ...」
「なんだい」
「パンを...」
「はいはい。増やすんだね。よし、さっさとやろう」
面倒そうにヨシュアは起きあがり、目の前の篭から堅く焼かれたパンをひと切れ、右手につかむと、大きく息を吸い、止め、そして吐いた。それだけだった。
ヨシュアの左手に、もうひとつ、パンが握られていた。
「ああ...」
守人が感激しているのにもかまわず、ヨシュアは、
「みんなずいぶん食べたね。こりゃあたいへんだ。なにか、麻布かなにかあるかい。一気にいこう」
とうながす。守人は涙をこすって、言われたとおりに、大きな麻布を調達してきた。草の上に広げた。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu