Ramaneyya Vagga
泣きじゃくりながらも、ジョセフィーヌは、はっきりそう言った。
「そうかい。それならいいんだ。その...恐がらせてすまない。そんなつもりじゃなかった...ごめん」
リアムは少女がかわいそうだった。司長の守り役に言われて問いただしに来たが、こんなことはしたくなかった。なんとも申し訳ない気分になった。
「ねえセフィー、いつでも私の家においでなさい。大工の仕事を見るのが好きなんだろ、いつでも仕事についてきたらいい。私が大工の仕事を教えてやってもいい。かわりに、きみは私にパンの焼き方を教えておくれよ。ああ、そうだ、相撲もとろう。一日3番、勝負といこうじゃないか」
などと優しくあやしたので、ジョセフィーヌはようやく泣き止んで、
「ほんと? うん、とろう」
と微笑んだ。それでそれからリアムは、ほとんど毎日、ジョセフィーヌに大工仕事につきまとわれ、パン焼きを手伝い、少女と慣れない相撲をとって、近所の人々の笑い種になった。
ジョセフィーヌは、リアムに、まったく正直に答えたわけではなかった。彼女は、よく聞こえなかったが、やはり、聞いたのだ。
「文書を...窟に...」
少なくとも、彼女は、あの日リアムが、司長の窟の壁を直しに行ったのではなく、そのことをリアムが隠したことを、知っていた。
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アーシュラムでは、男が年20にもなれば、妻をとり、父親の跡を継いで家長となり、父親は隠居する。男の通過儀礼にはまず割礼があり、ついで結婚と家の相続、それから隠居だ。隠居した年寄は、祭司となる。律法を守って禁欲し、時節ごとの祭祀を行う。アーシュラムの大事を合議する。説法し、医者のようなこともする。
ところで、リアムは25にもなるのに、いまだ妻をとらず、家を嗣ぐこともしない。ひょうろくだから嫁の来てがないのだとか、意地の悪い連中となると、皮かむりだの、種なしなどと陰口をきいたりした。しかし、リアムが家を継がないのには、理由があった。これは司長と、リアム自身と、リアムの父親と、一部の元老だけが知っている秘密であった。
三年前の夏だった。リアムは、父親に連れられて、司長の窟で、その密儀を受けた。
「ヨハネス...」
と司長は、リアムの父を呼んだ。
「あれが、戻ってきおった」
「こうも早く...いったいどこへ行っていたのでしょう」
リアムの父は、すべてを知っているようであった。リアムには、この場が、なにか聖なる場であることだけは、飲み込めていた。ただ黙って、気を落ちつけていた。リアムは牛のように動ずることのない男だ。そこを司長は見込んでいるのかもしれないし、ジョセフィーヌは好いているのかもしれない。
「ほほ、さあな。まあ、東方じゃろ。ペルシアか、もっと東かもしれぬ。なにしろ、わしの夢も届かぬところへ、逃げておったでな」
司長は、老人らしからぬ、血色のよい笑い方をしたのを、リアムはよく覚えている。
「だが昨夜、堂々と、わしの夢に現れて、頭から、油を流して、微笑んでおった」
託宣は夢、もしくは、夢のような心地の呪術師に語られる。
「ナザレびと、なにをするつもりでしょうか」
「そういうことなんじゃろう」
司長はまた笑った。頭に油を注がれるのは、救世主、または王である。ナザレの男は、司長に、それを見せつけたのだ。
「愚かな男じゃ。わしには、復讐としか映らぬな。いかにあのナザレびとが正しかろうと、誤っていようと、わしの目に映るのは、混沌とした闘争だけじゃ」
リアムは決して愚かな男などではない。アーシュラムにとって、イスラエルにとって、禁忌の人間が、いまどこからかやってきており、自分は、アーシュラムを守るために、なにかをしなければならないことを、とうに了解していた。
「終末が...近いのですか」
リアムははじめて口を開いた。終末には、破壊の王が、すべての不浄を焼き払う。そうしてはじめて、人間は、真の人間となる。
司長は優しくリアムに笑いかけ、
「終末か...ほほ、リアムよ、滅多なことを言うものではないぞ。おごるな。人の試練はまだまだ始まったばかりじゃ。おまえも、おまえの子も、そのまた子たちも、まだまだ忍ばねばならん。あのナザレびとなぞ、世界で延々と続く試練と比べれば、イスラエルの大樹の小枝がほんの少し揺れたくらいの、小さな地震にすぎぬ」
「あれはここへ来るでしょうか」
リアムの父がおそるおそるたずねた。
「ふむ、いや来んじゃろうな。そんなに暇でもなかろうて。少なくとも、あれが生きておるうちはな」
リアムの父はほっとしたが、リアムは、逆に、恐ろしくなった。司長にたずねた。
「では、そのナザレびと、死ねばどうなりますか」
「リアム...」
司長は少しのあいだ沈黙した。目をつむり、息を整えた。
「あれは、死ぬことが恐くはないのじゃ。死ぬために、戻ったのかもしれぬ。ゆえに禁忌じゃ。そうであるのに、エルサレムの馬鹿どもは、あれを放っては置かぬじゃろうな。まあ、じきに、死ぬじゃろう」
もう一度、息を調節する。呼気をゆっくりと、鼻で味わう。そうしてから、司長は老体を起きあがらせ、すっくと地に立つと、リアムの前に行き、その目をしっかりと見据え、
「リアムよ。秘儀を授ける」
と吐き出した。リアムはただ拝跪する。司長は傍らに置いていた陶器の壷を取り上げる。中には、山羊の乳が入っている。
「ナザレびとよ、汝はイスラエルを滅びから救うのかもしれぬ。それは認めてやろう。じゃが、クムランも生き延びるためには力を尽くす。油を受け、イスラエルの王になるが良い。じゃが、ここにクムランの王がおる。クムランの乳を受けたリアムがいるかぎり、汝とその徒党は、クムランに踏み込むことはできぬであろう」
司長はそう祝詞を唱えながら、リアムのひたいに、乳を注いだ。
それから司長はリアムに、ナツメヤシの葉の茎で織った、老人の手には余るほどの大きな箱を示した。
「リアム、これをおまえに授けよう」
司長が箱の蓋を開けると、そこには古い羊皮紙、またパピルスの本がぎっしりと入っていた。
「これは...」
リアムには、それがなんであるかは、すぐにわかった。秘儀として授けられる書ならば、当然、それである。
「聖書である」
司長が、祝詞のように言った。ここには律法がある。詩篇がある。イザヤ書がある。クムラン代々の司長たちが残した文書がある。
「これはクムランの、イスラエルの宝じゃ。われらの祖霊はここにある。汝はこれを読め。読んで骨とせよ。これを保有し、隠せ。そして孫々に伝えよ。これがクムランの主たる汝の務めじゃ」
リアムはただ拝跪した。宿命をただつつしんで受けた。
リアムはアーシュラムから離れた崖、死海が美しく望める高所なのだが、そこに窟をうがち、聖書を隠した。もともと大工の息子だ、クムラン・アーシュラムでは大工と言っても、その仕事は土木工事のようなものだ。この種の仕事は慣れていた。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu