Ramaneyya Vagga
「おぬしが頼むまでもないことだ。だが渾敦と饕餮を静めるのはわしでも容易ならぬ。手伝ってくれ」
西王母うなづいて、
「諾。じゃがどうすればいい」
「三百里飛んでわしの腹へいけ。合図したら思い切り突け」
「うむ、わかった」
西王母、燭陰を拝するとまた飛びさる。燭陰はおもむろにその巨大な両方のまなこをゆっくりと閉じる。
「そうれ、すべての光よ暗くなれ。すべての力よ闇に帰れ」
深く閉じる。
さてそのころ井城の上、空中では饕餮と渾敦が激しくぶつかっては交差しおびただしい閃光と爆風を巻き起こし嵐は姜人を吹き飛ばし雷は殷人を焼いた。またすさまじい爆音は諸人の鼓膜を破り不可思議な見えない光線が人を貫いた。
この二神の戦いの中にあって、姜一と姜斎はまだ生きていた。姜斎は姜一に抱きつきながらも一心に天に祈祷していた。祝詞を唱えていた。いわく、
「私たちを生かしてください。私たちはまだ生きたいのです」
姜一は渾敦と饕餮の争いが、はじめから勝負云々ではないことを見て取っていた。
<二神争えばすなわち宇宙が滅びる。私はなんということをしてしまったのか>
と悲しむばかり。
姜二、姜三も生きていて、姜人を守ろうと奔走していた。姜人を叱咤して集め、ゴゴゴゴと震撼する地を踏みしめて、なんとか一族を生き延びさせようと死力を尽くしていた。渾敦と饕餮は南壁(があったところ)で衝突している。姜二は諸人を率いて北門を開いて逃げた。ほとんどの者が突風に吹かれ、雷に打たれて死んだ。それでも諦めなかった。
「それ逃げろ! 神々の戦いに人がかかわっちゃならねえ! 見るな! 逃げるんだ!」
と声を枯らす。
好はといえば、ただ饕餮と渾敦の戦いに見入っていた。二神の圧倒的な力に魅入られ、その閃光と爆裂する景色の美しさに忘我していた。
<なんと激しいのか。なんという熱さじゃ。これが神々の力か。ああ、美しい。われにもあの力が欲しい。ああ、あのようにまぶしい光をまといたい。饕餮よ、われを食らいたまえ。われをあなたの光に溶かし、爆裂の中にわれを置け...>
と神を羨望するばかり。殷の諸人は逃げ惑う者、ただ拝跪して死を待つもの、狂って暴虐に走る者、もはや収集がつかない。
そのとき唐突に陽が食して辺りが真っ暗になり暴風、雷、轟音がやんで辺りを静かな気だけが覆った。この異変に気づいた饕餮、渾敦に問うに、
----渾敦、これはなんとしたことだ。
渾敦答えて、
----ふん、燭陰が狸寝入りをはじめよったらしい。
饕餮残念そうに、
----どうにも力が入らぬ。燭陰め、余計なことを。
----わしの炉も冷えてきよった。寒くてかなわぬ。
燭陰がまぶたを閉じれば、すなわち万物は力を失い、冷えていく。強大なる饕餮も渾敦もこの物理には逆らえぬ。
----ここまでか。
と饕餮が歎ずる。渾敦が笑って、
----まあ久しぶりに暴れて楽しかったわい。よしとしよう。
饕餮も笑って、
----そうだな。今度われらを呼び覚ますような強い人間が、いつ現れるか、だがな。
----もう現れぬかもしれぬな。いまの世界を見よ。人はどんどん冷めていく。弱く従順で、自由を知らぬ。求めもせぬ。われらの力に憧れるような人間は、もう出ないかも知れぬ。
----ふん、つまらぬ。人とはそうもつまらぬものになっていくのか。寂しいことだ。
----賢愚を誤り偽善を尊び無色無臭に冷めていくばかりだ。こんな人間どもなど、ここで滅んでもよかったのにな。
饕餮も渾敦も大いに笑った。
やがて鐘山で西王母が燭陰の腹を拳で痛打する。燭陰むせるようにして息を吐く。
<痛いのお。西王母め、加減というものをしらん。これでは宇宙が凍るぞ>
と燭陰が危ぶむ。燭陰が吐いた息は宇宙を駆け巡りあまねく冷やしていく。すぐさま崋山にまでいたる。寒風は饕餮と渾敦をも凍らしめ、猛風が二神を再び四方の果てに追放した。
<いかん、世界が凍っては事じゃ。少し吸っておこう>
燭陰はゆっくりと息を吸った。西王母、これを見て喜び、
「おお、燭陰、さすが粋なことをしおる。これで人の世も少しは明るくなろう」
と少女のように笑って、天の下、人の世界を眺めたのだった。
やがて燭陰の吸気が崋山にいたる。井城で争った人々をその暖かい神の慈愛が包むのである。この風を浴びて生き返らない人はいない。時間を戻して元に戻らない城壁、家屋はない。この暖かみに打たれて春を感じ、朗らかに改心しない人はいない。神の英知を浴びれば、すべては好転するのである。すなわち灰となった虎甲も、死んだ姜人、殷人も生き返り、破壊され尽くした井の街は瞬く間に元通りになり、姜人、殷人の全員が、争うことの無益を知ったのであった。
好は生き返った虎甲に抱きついた。
「おお、弟よ、よくぞ帰った」
虎甲は辺りをきょろきょろと見回す。よくわからぬが、何かすべて終わったような気分である。
「娘娘、退くって約束したよな」
好はうなづいて、
「おお、したとも。悪かった。そちに悪いことをした。われは恥ずかしい。約束は守らなくてはな」
と虎甲を抱擁して離さない。
好は井城に出向いて姜一と再び会った。
「姜の礼、勇気、見事じゃ」
と言って、拝跪した。姜一は恐縮した。
「婦好、なにをする」
好、ぬかずいたまま、
「われは詫びたい。恥ずかしいのじゃ。父上の墓をつくるためになぜ姜人を狩るのか、考えてみれば、はじめからわれは不審に感じてはおったのじゃ。それなのにおのれの力を誇りたいばかりにおぬしたちと争った。ために渾敦と饕餮を招いてしまった。いま神々の情けを受けてわれは生きてここにおる。ゆえに恥ずかしい。姜の礼は見せてもらった。勇気は天に届くばかりに高い。われの勇気なぞ地にぬかずくほかない。父上にその愚を説く勇気もなかったのじゃ。じゃがいまは違う。われは殷都へ帰って父上を説く。聞かぬなら父上と争ってもいい。人牲の礼を改めることもしよう。これにて姜に、天に償う」
と説いた。そこで姜一の側にあった姜斎は好の手をとって、面をあげさせ、
「そんなに悪びれることはないわよ。好さん。あんたは強かったわ。私はあんたを敬うわ。あんたの誇り高さ、強さ、勇気、美しかった。神々もきっとあんたを気に入っているわよ。さあ、私たち、仲良くなりましょう。友達に。それが私たちの天への償い。ううん、人は別に神々にへつらうことなんかしなくていいのよ。人は人の道を行けばそれでいいのだわ」
と言って、好に笑いかける。好も笑ってふたりは抱き合ったのだった。
さてもここに一件の落着を見て通俗小説『口』の終わり。人は人の道を知りそこに英知の光を見て歩んでいく。おのれの力と自由を信じてである。これぞまさに遥か昔から伝承されてきた真理そのものなり。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu