Ramaneyya Vagga
<渾敦を招いたと?...馬鹿な、虚じゃ。人に渾敦を招き使うことなどできぬ>
しかしこの井城に満ちる赤黒い気迫はなんだというのか。
<姜には渾敦を飼いならす礼術があるというか...馬鹿な!>
好がひとりわなわなと怒り、また畏れていると、虎甲が寄り添って、
「娘娘、どうした。体が冷えちまうよ」
と声をかける。好、虎甲を振り向かずに面を伏せ、
「そのほう、怖くはないか」
とつぶやく。
虎甲は驚いた。好がおびえているのである。それを自分に言う。虎甲はしばらく黙って考え、好の肩を抱いて、
「娘娘、明日退こう」
と言う。好は虎甲に身を任せて、
「そうはいかぬ! そのほうならわかってくれるか」
「わかんねえよ。なんでそう維持をはる? 渾敦なんていう神にさわっちゃならねえ。人がそれに触れては即滅びる」
「ここで退いてはわれの負けじゃ。姜に負けるわけにはいかぬ」
「娘娘は充分に強いよ。だれも娘娘が負けたなんて思うもんか。凶神から離れる。これは人の道だ」
「それが人の道か」
「そうだ。王ももう姜に手出ししようとは思わぬはずだ」
「明日、確かめる」
「なにを?」
「渾敦まことに井におわすか否か」
「娘娘、どうやって」
「簡単じゃ。見ておれ。真におわすなら、退こう。そちに約束する」
「もう一戦やるのか。そうしたら、退くんだな」
「おわせばな。退く。そのほう、戦ってくれるか」
好に頼まれては虎甲は断れない。
「ようし、任せてくれ。暴れ回ってくれる」
と答えて、好を振り向かせると、面を寄せて接吻しようとする。好は虎甲の面をぴしりと叩いて、
「調子に乗るな。われを抱くにはそのほう、器が足らぬ」
と笑って、闇に歩き去ってしまった。虎甲、
「くそう、もう一息」
と大いに悔しがった。好は充分に虎甲の人と勇気を愛しているのだが、いまはそれどころではない。
日かわって、朝のまだきに、好は大きな神卓に羊の首を供え、殷の将兵とともに天に祈った。好は地にぬかずいて一心に祈る。天に問う。
<なぜ天はわれに試練を課す。渾敦をさしむけわれを負かす。それが天命ですか。退けとおっしゃいますか。われが姜を攻むるは誤りとおっしゃるか>
天は答えない。その沈黙は、好に天が、「しかり」と告げているようにも思えた。好は頭を振って立ち上がる。諸人に告げて、
「今日の一戦にして勝負をつけるぞ。ものども、心してかかれ」
と激せば、将兵答えて鬨をつくり、
「意気やよし! それ、こしゃくな姜なぞ踏み潰してしまえ!」
と好が言えば、殷兵、大いに勇気を得て井城に攻めかかっていった。
殷軍は西と南から怒涛のごとく攻め寄せた。姜軍はこれを迎え撃ち前日と同じように挙猿の軍勢の助けを得てさんざんに石矢を浴びせる。姜二、姜三の指揮する西門、姜一、姜斎の率いる南門、ともに抵抗激しく、殷軍は次々に矢を受け石に打たれて死んでいった。殷軍は門に突車をさんざんに打ちつけたのだが、門は固いこと鉄のようで、びくともしない。好このさまに、
「たかが薄板の門がなぜ敗れぬ!」
と怪しむも、それもそのはず。門は渾敦のおわす口器の呪禁で固く閉じられているのであった。
壁を登れば石で落とされ、門は敗れず、火矢は化蛇の水砲に消され、投石はバリアのごときものにはじかれる。好の進退、ここにきわまるかと思いきや、好はひとり決意して白毛の馬に乗り換えて駆け出だし、石矢をくぐりながら南門近くへいたると、
「やあ姜の祖神帝江、天山の渾敦に殷の婦好がもの申す!」
と怒鳴りつける。このさまに虎甲驚いて馬を駆け出し、
「娘娘、なにをするつもりだ!」
と呼ばわるも、好は聞かぬふりをして、
「いにしえの強き濁流たるそちも落ちぶれたものじゃ! 人に使われ四方の壁に封じられて満足するとは、そちいつから下っ端の使い魔に成り下がった! 姿を見せい! その醜い六方に伸びる足をさらして、われに跪けい!」
と天に届かんばかりに怒鳴りつける。虎甲驚いて、
「娘娘、なんてことするんだ、もうお終いだ!」
と嘆かんばかりに言うと好を守らんと馬を走らす。
注記:殷を滅ぼした暴君として知られる紂王は、皮袋に血を詰め、木に吊るし、天と称し、これを射ってあざけり、すなわち雷に打たれて死んだという。神を招くには祭るとそしるの二法あって、そしるのが手早いわけである。
すると怪異が起こった。井城の南壁ゆらゆらとゆがみ、砂塵巻き起こって、木々は地から引き抜かれて宙を舞い、いたるところで石が爆裂し、天は日食のごとくに暗くなり、どろどろと暗雲渦を巻いた。このさまに姜一が祭卓の口器を見れば、赤く焼けて溶解せんばかりで、周囲の景色は闇からそのかなたへと消し飛んで、もはや姜一にも制御しがたい。
「殷媚、なんという命知らずか」
とほとんど驚倒し、この行く末を危ぶむ。
「娘娘、逃げろ!」
と虎甲が叫ぶ。好、心のうち大いに畏れて、
「虎甲、渾敦じゃ、われを助けよ!」
と馬を帰して逃げ出し虎甲に助けを求める。そこへ突如南門から雷のごとき怪光線発して好を襲う。虎甲、
「や、娘娘、危ない!」
と馬を飛ばして好の前に飛び出してかばえば、すなわち虎甲は雷に打たれて灰と化す。
「ああ、虎甲! 弟よ!」
好は涙を流して嘆いた。馬から飛び降り虎甲であったものをつかむ。手には白い灰が残るのみであった。好、きっと井城を睨んで憤怒し、
「ああ! もういやじゃ! 天など死ね! 神々は滅びよ! われは怒った! 姜人! 渾敦よ! よくもわが弟を殺したな! 世界とともに滅びるがよい! 饕餮に食われて溶かされるがいい! 饕餮! 来たれ! 来て食らえ! すべてのものを食ってしまえ! まずわれの肉をささげよう!」
と天に向かって叫ぶと、饕餮文画の矛をまっすぐに空へ投じ、自らは寝そべってその矛を受けんとする。好の胸元にその矛の切っ先が届かんとするや、天から突如幾筋もの雷が降りそそぎ、雷鳴と虎の怒声が轟いて、一陣の黒い嵐が好に吹きつける。諸人、あっと驚き見れば、巨大な虎のごとき怪獣がその大きな口で矛をはっしとくわえ、砂塵を撒き散らして地に降り立って、矛を投げ捨てると、グルグルと怪異な声でうなり、辺りの景色を爆発したように吹き飛ばしながら、首をひねり、足を踏み鳴らしていた。
----なんという貪欲な女だ。なんというわがままで自由で強い女か。われの贄にふさわしいぞ。汝の血を受けよう。われは祭られた。汝を食らってやろう。だが汝はうまそうだ、あとにとっておこう。待っておれ、まず姜人のまずい肉と渾敦の苦い濁流を食らってくるゆえな。
と好に言う。好、ほとんど忘我したまま饕餮の姿を見れば、その巨大さは象を五頭も合わせたほどで、巨大な口は虎の牙を百本生やし、口の中は炉のごとくに煮えたぎり、黒い四肢は地を溶かし、黄色い閃光に満たされた体はまぶしくてとても直視することができないが、前足の腋の下にある無数の目が、こちらを睨んで金縛りにさせる。
好饕餮に、
<食らいなされませ。あなたさまの欲が尽きるまで、世界の果てまでも>
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu