Ramaneyya Vagga
骸骨は口をくわっと開いて怒り、虎甲と矛を合わせる。十合戦ったが、虎甲の怪力は常にない。鬼兵は矛を折られてガシャリと馬から転げ落ちた。この殷第一の豪傑にかかられては鬼兵もたまらない。ギャー! と叫んで地を這う。虎甲は鬼兵を馬もろとも踏みつぶした。すっと、骨の屑が消えていき、一本の馬の肋骨を残した。姜三がすばやく刻んだ字があった。
「姜兵なり」
注記:神だ鬼だ呪術だと書いてきた。こういった事象が、ここに書かれたように、実際にあるとは、簡単には言えない。同様に、ありえないとも、簡単には言えない。芸術というものは、文学に限らず、おしなべて翻訳である。ある事物、現象を変換する。その具合を楽しむ。このあらわれを霊感とか、神とかいう。だから、ここに描かれる魑魅鬼神の世界もまた、何かの現象----精神的な現象を言うし、それは物理的な事象にもとづくが----を言い換えているものだというふうに、思っていただきたい。
姜三にとっては、あの骸骨騎兵は、小細工という言葉で説明できた。
<小細工ではあるが、簡単に払ってくれるもんだ>
背後を振り向く。草木をかいくぐり、凪ぐ。姜三は矮躯ではあるが、独特の走法をもって山野を駆けるのに長けている。駆ける。それでも追ってくる。殷兵、なかなかのものである。このまま姜斎のいる林中へ行っては事である。
<禁ずるか>
立ち止まる。竹符に朱で犬を書く。一枚書いて、藪に投ずる。西に駆け、また一枚書く。こうして四方に符犬を配する。虎甲たちがこの禁じられた立方地にいたるまでに、なんとか禁じえた。
<まずはこれでよし>
姜三は走った。
虎甲は姜の尖兵がひとりの小男、それも覡であることを見抜いていた。前方、藪に何か投じて、走り去るところまで見えていた。
<なにかやりやがった>
それなりに用心する。だが立ち止まっては相手の思う壺だ。突進する。虎甲が地のある境に踏み込んだとたんである。四方に四匹の巨犬沸き起こって、虎甲と殷兵を囲んで逡巡し、ぐるぐるとうなる。眼は炎のようで、毛は逆立ち、いかさま常の犬にない。
「虎甲どの、これは...」
殷兵のひとりが問う。
「畜生、禁じられた」
虎甲が苦々しい顔をして、矛をかまえる。
「切り抜ける。一頭倒せばそれで済む。俺が西を倒す。そのほうら、三方を防げ」
虎甲、全身に気をめぐらして、矛を舞わして西の巨犬に襲いかかる。犬は飛んで虎甲の背後を狙う。虎甲、足を使って横に跳びそれを防ぐ。矛を振る。犬が退く。
ここで虎甲は愚かであるといえよう。好がこの場にいたなら、さっさと姜三の書いた竹符を拾って、割るなり、犬の字を削って消すなりしたであろう。虎甲はこの犬を禁術によってあらわれた鬼犬だと見抜いたにもかかわらず、荒ぶることしかできない。彼の武の性分である。
姜三は逃げ切った。虎甲が苦闘して鬼犬を倒すころには、姜斎のいる林中へ戻っていた。姜斎たずねて、
「どうだった?」
姜三は眉をしかめる。己の遁甲が見破られた、とは言いたくない。失態であった。
「けっこうな媚が率いてる。鬼を払う豪傑もいる。まあ、弱い敵じゃあねえな」
そう言うに留めた。
「よし、しかけるわよ」
「斎姉、油断はならぬ」
「黙りなさい」
姜斎はそう言うと姜兵を率いて林野を進んだ。姜斎は早く殷の媚女を見てみたくて仕方がなかった。見て、その上で、術の限りをつくして戦いたかった。
さて好は殷兵を率いて虎甲を追った。姜三が方犬によって禁じた林にいたる。そのころ、ようやく虎甲は鬼犬を倒して呪禁を解いていた。結果的には、虎甲の矛が、ようやく西に投じられた竹巫を叩いて割ったのである。
好はすぐにそれとわかった。
「虎甲! そのほう、なにを遊んでおるか!」
怒鳴りつける。虎甲振り向いて、
「おお娘娘、いま鬼犬を倒したんだ、なかなか手強かった」
好は情けなくなった。いらいらした。
「ええい、いまはそのほうの愚を叱っても仕方がない。進むぞ」
殷兵は行軍した。
そうして姜と殷の軍勢は林中に遭遇した。先に殷軍を察知したのは地の理を知る姜側であった。
「殷兵、すぐ先にある」
姜斎は殷軍の気を見た。
「ほとんど全軍だ。勝ち目はないぞ」
姜三は地から足音を聴いた。
「わかっている」
姜斎は言うと、辺りをゆっくりと見回す。林は、急な斜面にさしかかっている。こここそ崋山のふもとである。霧が遠く山野のふもとに広がっている。
「ここは、すでに華山ね」
姜三に問う。
「華山だ」
姜三も山野を見回す。山の霊気が満ちている。
「嵜(キ)を招くのか。だが餐がないぞ」
注記:キは人面猿身の岳神である。岳神のうちでも、別格の力を持つ。舞楽に通じ、祭るには舞いをもってする。本来「龍のごとくにして一足」(『説文解字』)であるという。いま仮に嵜と当てる。この小説では、インドの白猿ハヌマットに比して描くことにする。ハヌマットは怪力は山を抜くという神猿で、『ラーマーヤナ』においてラーマを助け、無敵の魔王ラーヴァナと勇敢に戦う。
羊、犬の類は連れてきていない。姜斎これに、
「猿は血を好まず。菜と舞を受ける」
と答え、懐から小さな麻袋を取り出す。中には小豆が入っていた。
姜斎は自ら山菜をつんだ。小豆と山菜を銅器に入れる。牛身有翼の渾敦をかたどった祭器である。竹符に朱を入れる。いわく、
「姜の婦斎、嵜を祭る。受けられたし」
急場であるゆえ、簡潔に書かざるをえない。本来、一族の来歴やら、その生存の本義やらを書く。竹巫を器に入れると、麻の芽を乾かしたものを炊いて煙を立てる。青い香気が森にみなぎる。諸人はこれを吸う。器に拝跪する。
注記:殷代に麻が中夏にあったかどうか知れない。だがここでは酒を用いる殷、麻を用いる姜、とその礼の特質を分けるのに便利であるので、こうする。
「姜三、鼓を打って」
「諾」
姜三が銅鼓を打って、姜斎が舞う。
銅鼓の音をいちばんに聞きつけたのは好である。
<生意気に、祭祀をなすか>
殷軍は山間の小道に出ていた。好は鼓の音の方角を見定めると、軍を林中に向けた。躊躇するところはない。
「姜はそこに潜んでおる。みなの者、行って踏み散らせ!」
と号令する。
殷軍が林中に分け入ると、さても前方に一群の兵団あって、その手前には、ひとりの女が舞っているようである。諸人見れば、朱色の戎衣もあでやかに、蝶のごとく舞う姿は華麗なことこの上はなく、殷兵は見惚れんばかりであった。
すると虎甲が馬に乗ってあらわれ、
「なにをしているか。戦え」
と呼ばわると、そのまま殷兵たちを追い越して、ひとり突進していった。戦車に乗って見ていた好、
「おお、虎甲、よき胆力なり」
と少しは感心した。殷兵、はっとして虎甲に続く。
ところが、突如土中からもくもくと白い霧がおこって、人の形に作られたかと思うと、キャー! っと怪声が轟き、白い鎧をまとって矛を振りかざす巨大な猿が、殷軍の前に立ちふさがると、銅鼓の音に合わせてどすんどすんと地をゆらしながら舞い始めた。
作品名:Ramaneyya Vagga 作家名:RamaneyyaAsu