欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~
『地下施設・B‐ブロック』 十二月二十四日 朝
愛里は身体のだるさを覚え、ベッドからなかなか起き上がれないでいた。でも、今朝海人から来たメールを思い出しているのか、その表情は穏やかだ。
[愛里おめでとう。そしてありがとう。この不安な時期に、新しい生命という光を与えてくれて凄く感謝してる。俺は子供ももちろん大切にするけど、君を一番に大切にすることを誓う。パソコン画面から飛び出して会いに行きたいぐらいだが、残念ながらすぐにはここのセキュリティを攻略できそうにない。けど、必ず会いに行くから待っていてくれ]
マリア像のような微笑みを浮かべ愛里はそっとお腹に手を当てる。いつの間にか彼女は母親の顔になっていた。
「部屋番号4325号室の吉永愛里さん、一時間以内にゲート前に待機して下さい。なお、部屋の私物は全て持ってきて下さい」
突然、自分の名前を呼ぶ館内放送が入った。これは非常に珍しいことで、今までこのような放送は聞いたことが無かった。
「え、なんだろう。まさかメールの事がバレたんじゃ……」
事態がよく呑み込めない様子だったが、肘をついて起き上がると指示通り荷物をまとめ始めた。
すぐに内線が鳴り、出てみると涼子だった。
「なあに? 今の放送。愛里だけ呼び出されるってあなた何かしたの?」
電話の向こうから心配そうな声が聞こえてくる。
「分からない。でもとりあえず行ってみるね。不安だから涼子も来てくれる?」
「もちろん行くに決まってるじゃない。親友だもん」
ゲート前で待ち合わせすることになり、電話を切った。
一時間後、ゲート前には放送を聞いたと思われる人々が多数集まって来ていた。
「どうしたの? 愛里ちゃん。さっきの放送はなんなのかしら」
テニスサークルで仲が良くなった友達が次々に声をかけてくる。涼子は愛里の隣に心配そうに付き添っている。
「吉永愛里さん。ゲート横の機械にマーカーをかざして下さい。あなたは本日付で移動となりますので、ニュートラルエリアを経由してD‐ブロックに向かって下さい。危険ですので当人以外は、ただちに後ろに下がって下さい」
周りの人たちは後ろに下がったが、涼子は手を繋いだまま離さなかった。
「警告! 望月涼子さん。至急下がって下さい。三分以内に下がらない場合は消去されます」
後ろの人たちがざわざわし始める。
「消去ってなんなの?」
「なんか響きが怖くない? 涼子! 下がった方がいいわよ」
友達が涼子に鋭く声をかける。
「涼子、私は大丈夫だから。下がってお願い」
愛里は涼子を抱きしめた後、後ろにそっと押した。
「愛里! 絶対忘れないからね! 私たち友達だからね!」
涼子の顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れている。
荷物を持つと、脇の機械にマーカーをかざす。確認音がした後、二重になっている分厚いドアが開いていく。
「愛里! 元気でねー!」
友人たちの声を背中に聞きながらゲートをくぐる。後ろを向きみんなに手を振ったが、ドアはそんな別れのあいさつなど気にする様子もなく、無情にも閉じていく。
そこから三十メートル程歩くと、ニュートラルエリアのドアがある。中に入ると次に左手のドアが開く。その先にD‐ブロックと書いてあるドアが見えた。
そこまで歩き同じようにマーカーをかざすと、D‐ブロックのドアが開く。中の作りは今までいたブロックにそっくりだが、違っている事は人気が全くないことだ。
「1001号室に入室後、指示を待って下さい」
愛里は不安な様子でおずおすと部屋に入室した。そのままベッドに腰掛けてぼーっとしている。
「吉永愛里さん。あなたはこれから出産プログラムに組み込まれます。後ほど資格者の中から、産婦人科の医師が派遣されます。では、ごゆっくりおくつろぎ下さい」
このアナウンスを最後に放送は沈黙する。
愛里は端末を立ち上げると、海人にメールを打った。
[今日ね、私だけD‐ブロックに移動になったの。出産プログラムって何かわかる? 何か勝手にそれに組み込まれたみたい。私、今すごく不安だわ。何か分かったらメールしてね]
ベッドに横になりメガネを枕もとに置くと、白い天井を不安げに見つめた。
作品名:欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~ 作家名:かざぐるま