欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~
『地下六十階・統括本部室』 十二月六日 同時刻
サラはコントロールルームの端末を見ると、目を見開き驚愕の表情を浮かべた。
鋼鉄のフタの自動ロックが、何があったのか分からないが『OPEN』になっているではないか。画面右下に目を移すと、地下の貯水タンクの残量を示す表示からアラートが出ている。その時、地上警備部門のスタッフから内線が入った。
「大変です! 非常脱出口から地上に水が噴き出しています」
「えっ? 何ですって? 水ってどういう事なの」
映像を敷地の監視カメラに切り替えた。よく見ると施設入口の民家の井戸から、水がこんこんと湧き出ている様子が映っている。
彼女は一瞬で全てを理解した。
(内部水圧で、フタをロックごと吹き飛ばしたんだわ)
「ただちに原因をつきとめなさい。水が止まったら、少し予定が早いけれど井戸ごと強化コンクリートで塞ぐのよ!」
息を大きく吸い込むと、怒鳴りつけるように命令する。
「わかりました。すぐに対応します」
気持ちを落ち着かせるように椅子に座り直し、細いたばこに火を点けて考え込む。絶対に自分がロックした痕跡を残してはならないと考えたのか、アクセス記録を消去し始めた。キーボードを強めに叩く彼女の顔は、悔しさで歪んでいる。
フタが開いたということは、つまり東条が地上に出たということだ。敷地の監視カメラの録画を巻き戻してみると、東条が立ち上がりよろよろと歩いて行く様子が映っていた。
デリートキーを最後に押し込むと、ふうっと長い溜息をつく。
しばらくして東条の恋人が社長の娘だったのを思い出すと、次の作戦を考え始めた。施設の敷地から出たら、もう自分の力は及ばない。
「夫に協力させて東条を始末してもらうしかないわね。マーカーを手に入れる方法はそれしかないわ」
独り言をつぶやくと、受話器を持ち上げた。
一時間後、統括部長の権限で、サラは強引に夫を施設に呼び寄せていた。ルール違反だが、今はそんなことにかまっていられない。
現在の状況を全て夫に話すと、「協力しなさい」と語気を荒げて命令した。夫のジャックは統括本部室の椅子に深く座り、サラの話を注意深く聞いている。
「……サラ。僕は他の人を殺してまで生き残ろうとは思わないよ」
悲しい目をして彼は妻の顔を見つめていた。
「何を言っているの! 今どんな手を使っても、マーカーを手に入れさえすれば生き残る事が保障されるのよ!」
金切り声をあげて、夫の答えに反発する。
「人間の中にはね、自分を犠牲にしても他人を助けたいって人もいるんだ」
サラに分かって欲しいのか、ジャックは両手を広げて情熱的に言葉を続ける。
「泳ぎがうまくもないのに、溺れている人を助けようと思わず飛び込んでしまう人もいるだろ? 君がしようとしていることは“神様と、僕の父の教え”に反する。君もその腕輪を本来持つべき人に返すべきだ」
「なぜ? 苦労して手に入れたのに、返すわけには行かないわ! 善人ぶってなによ!」どうしても理解できないという風に立ち上がると、噛みつきそうな距離まで夫に近付き叫んだ。ジャックも首をゆっくり振って立ち上がったが、なぜか急に優しい顔をして口を開く。
「君は相変わらず美しい。だが、君とは今日で終わりだ。……さよなら」
左手の薬指から指輪を抜き取りテーブルにそっと置くと、一度も振り返らず部屋を立ち去った。子供のように泣き崩れるサラを残したまま。
秘密を知ってしまったジャックは、そのまま不正を会社に報告し、サラのマーカーを無効にすることもできたはずだ。しかし、ジャックはそれをしなかった。
きっと彼は教えを犠牲にしても『他人』を助けたいと思ったに違いない。
日も暮れだしたころ松山市内で服を買い、乾いた服に着替えると俺はやっと生きている実感が湧いてきた。何度も愛里に連絡をとってみたが、ずっと留守電だ。
「道後温泉で待っている」と伝言を残し、坊っちゃん列車に乗って道後温泉に向かった。坊っちゃん列車とは、夏目漱石の小説『坊っちゃん』から名前がつけられたらしい。SL型の小さな路面電車で、市民に深く愛されている。
路面電車から外界の様子をゆっくり堪能しているうちに、あっという間に温泉に到着してしまった。冷たい水の中に居たせいか、身体の芯はまだ暖まっていない。
無性に湯に入りたくなり、急いで受付にお金を払うと買ったばかりの服を脱ぎ捨てた。そしてゆっくりと湯船に浸かり、今日の出来事を思い出していた。
「お湯というか水の中はもうこりごりだと思っていたけど、こりゃたまらんですなあ」
独り言を言いながら温泉を一通り楽しんだあと、休憩所でほっかほかの身体を冷ましていた時……。
「おーい、海人! あ、すいません!」
休憩所の入口から、おじいさんの足につまづきながらも笑顔で走って来たのは、久しぶりに見る愛里であった。相変わらず子犬のように元気がいい。
「よお、久しぶり! 元気だったか?」
本当はいろいろな言葉を考えていたのだが、とっさにこんな月並みな言葉しか出て来なかった。
「私は元気よ。――脱出して来ちゃったのよね?」
腰に手を当て、こちらを睨むポーズをする。
「ああ……悪かった」
「あーあ。海人の事だから、絶対やると思った。昔からダメって言われたら余計燃えるタイプだし。でも、本当は逢えて嬉しいよ」
愛里は悪戯っぽく笑いながら、ぎゅっと抱き着いてきた。
「若いもんはええのう」とおじいさんやおばあさんたちが、目を細めてこちらを見ている。
「ちょ、ちょっと一回離れよう。俺も逢えて嬉しい。そういえば颯太な、あいつはまだ施設にいる。資格者に関わる秘密を調べてくれているんだ。何か分かったらきっと連絡があるよ」
「そっかあ。いつかまた昔みたいに、三人で遊べたらいいよね」
「ああ。それでな、実はあいつぎりぎりで資格者に選ばれたみたいなんだ」
颯太が不正にプログラムを書き換えた件は、いま話しても誰も得をしない。
「えっ、本当? 良かったじゃない。まさに奇跡ね。颯太も資格者かあ」
「も?」
ちょっと引っかかる言い方だ。
愛里は俺の顔をじっと見つめながら、「今朝届いたのよ」と封筒をバッグから出した。まてよ? どこかでみたような封筒だ。手に取ってみると、やはり差出人はMICとなっていた。
「中から紙が出てきたの。そうしたら赤い字でね……」
「おめでとうございます! あなたは選ばれました! だろ? 愛里にも来たんだ。信じられない」
このタイミングで愛里にも? 嬉しいが、少し信じられなかった。
「社長の娘だから、不正があったとかじゃなきゃいいんだけれど」
少し困った顔をしながら紙に視線を落とす。
「うーん。確率を考えてみると、俺達三人が偶然選ばれるって相当ヘンだよな」
「私もそう思うわ。でもね、海人が施設から脱出したって連絡をくれたじゃない? 留守電を聞いた時、本当に飛び上るほど嬉しかった。だからね、これから地上で海人とずっと一緒にいられるって言うのなら、こんなモノいらないわ」
彼女の言う通り、確かにもうマーカーなど必要は無いかもしれない。俺は身体の力が抜けていくのを感じた。
作品名:欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~ 作家名:かざぐるま