欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~
『地下施設・非常脱出口』 十二月六日 午前
その事に気付いた俺は、気力を振り絞ってハシゴを降り始めた。
どこまで降りればいいかわからないが、少なくとも三か所はバルブを開けないとならないだろう。全開時の勢いから計算すると、三時間程度でこの空間は水で満たされるはずだ。後は、水圧でフタが壊れるのを期待するしかない。
ただ、心配なのは携帯酸素がたった三十分しか持たない。水圧でフタが飛ぶまで三十分以上かかれば、俺は……確実に死ぬ。いちかばちかの賭けなのは分かっているが、これに賭けてみるしかない。
のろのろと慎重に降りて行くと、最初の赤いバルブが見えてきた。しかしこれはスルーだ。下の三個目を最初に開けるまでは、ここからまだ水を出す訳にはいかない。なぜなら、降りるとき水流を被ると体力をかなり消耗するからだ。
しかし、登りより下りの方がこんなに辛いとは思わなかった。何より膝は震え、足に力が入らない。最初に下ろす足がもし滑ったら、そのたびに宙づりになるだろう。
歯を食いしばりながら、ついに三個目のバルブにたどり着いた。震える手でバルブを全開まで回すと、「ゴーッ!」という音とともに激しい水流が足もとの暗闇に消えていく。
息を深く吸い込み、再び登り始めた。もう自分の呼吸音しか聞こえない。しばらく頭をからっぽにしてただ同じ作業を繰り返す。やっと二個目のバルブに着き、同じように全開にする。もう握力は、この時点で既に子供以下だろう。
「あと、ひとつ!」
自分を励ますように大声を上げ気合いを入れた。
最後のバルブにたどり着くと、もうバルブを回す力さえ残ってないことに気が付いた。だが、これさえ回してしまえば後はこの位置で待てばいい。最後の力を振り絞って少しずつ回した後、そのまま宙づりの体勢で気を失った。
――今度はどれくらいの時間失神していたのだろうか。身体がびっしょり濡れて冷たくなっていた。体勢を整えヘッドランプで下を照らしてみると、なんと水面が二メートル程下まで迫っている。腰がきりきりと痛いが、それを見て少しだけ体力が回復してきたのを感じた。
水面をよく見てみると、何かがゆらゆらと浮いている。ここに入った時に投げ捨てたジャンパーが手招きするように動いていた。何か滑稽な感じがして気持ちが少し和む。
さあ、ここからは水面の上昇に合わせて浮いて行けばいい。身体をこれ以上冷やさないようにジャンパーを再び着込み、安全ベルトのフックを外した。水温は地熱で温まっているせいか、耐えられない程冷たくはない。
時々、まだ何も見えない上の空間に目をこらした。空気が圧縮されて、ひどい頭痛が襲ってくるかもしれないが今度は絶対に気を失ってはいけない。本当の最後の勝負はフタが見えてからなのだから。
襲ってくる睡魔と闘いながら暗闇を凝視していると、照らした光の先に待望のフタが突然現れた。体温が徐々に奪われた結果、まだ身体の自由が効かないが、今だけはそんなことを言っている場合ではない。この脱出チャンスを逃すとたぶん、いや絶対に取り返しが聞かないだろう。
素早く(実際にはのろのろだったが)ハシゴを上ると、念のため開閉レバーを動かそうとした。やはりビクともしない。
突然“やっぱり自分はとんでもない事をしてしまった”と後悔の念が襲って来た。全身にぶわっと鳥肌がたち、叫びだしたい激しい衝動にかられた。
(肺呼吸の人間にとって空気が無くなる事は、こんなに魂を揺さぶられるほど怖いんだ。水なんて出さなければ、いつか下に降りられる可能性もあったのに! 生きたい! できれば時間を巻き戻したい!)
襲いかかる焦燥と、吐き気を伴う耐えがたい恐怖を無理に飲み込んで深呼吸をしてみた。
……その時、ふいに探していた答えに辿り着いた。
『愛するひとの為に脱出を選んだのだから、後悔はしない。たとえ失敗しても本望じゃないか』と。
ここからは、もう迷わなかった。ハシゴの最上段に安全フックを掛け、静かに心の準備をする。黒い水面がだんだん近づいてきて、ついに腰のところまでせりあがって来た。
やがて水面が喉仏を、死者の手のような感覚で濡らし始める。携帯酸素マスクを口に当て、デジタル時計のタイマーを三十分に合わせるとアラームをかけた。
今度このマスクを外すのは地上の光の中か、それとも……。だが、今やれることは全てやりつくした。
あとは――神が決めることだ。
やがて水が天井まで達すると同時に、ひどい耳鳴りと頭痛が襲ってきた。ヘッドランプはいつの間にか消えてしまい、まわりは完全なる闇だ。生きるか死ぬかの瀬戸際にいるというのに、俺は何か母親の胎内にいるような不思議な心地よさを感じていた。
どのくらい時間がたったのだろうか。手元を見ると時計の光でタイマーが見える。酸素切れまであと五分を切っていた。
「シュゴー……シュゴー……」という音だけで、他には何も聞こえてこない。
(最後に、一目でいいから愛里の顔を見たかったな)とこの時心の中で考えていた。
そしてついに時計のアラームが鳴りだす。滑稽な事に、アラーム音は“2001年宇宙の旅のテーマソング”だった。
あと、ひと呼吸で完全に酸素が無くなるだろう。
その時、頭の上で「ミシッ!」という音がしたような気がした。そしてついに酸素が無くなる。肺の中に残っているこの最後の空気を吐き出したら、俺の人生はこれで終わりだ。耳なりがして気が遠くなっていくのを感じる。
さようなら、愛里。こんなバカな事をしない、もっといいひとを見つけて幸せになってくれ。
「バキィッ!!」
急に上方が明るくなり身体が上に持ち上げられる。死にもの狂いで安全フックを外した瞬間!
水とともに逆さまの状態で俺の身体は地上に噴き出した。傍から見たらまるでマンガのような光景だっただろう。
なぜなら……うどん屋の隅の枯れ井戸から水と共に、人間が足から飛び出してきたのだから。周りが畑だったのとリュックがクッションにもなって、着地のショックはかなり軽減されたが、背中から落ちた瞬間は全く息ができなかった。
「ごほっ! ごほっ!」と倒れたまま咳こむ。命が助かった安堵感から力が抜け、しばらく横になって体力が回復するのを待っていた。
空を見上げるとまるで俺を祝福しているかのように、鳥たちが優雅に飛んでいる。脱出の達成感よりも、ここに寝転がり、息をしていることがたまらなく嬉しかった。
全身が鉛のように重いが、俺は膝をついて立ち上がるとよろよろと歩きだす。頭から足の先までびっしょり濡れ、ズボンが太ももにべったりと張り付く。
すぐに愛里に会いにいかなくては。「何やってるの!」って絶対に怒られるだろうけれど……。
作品名:欲望の方舟 ~選ばれしモノたち~ 作家名:かざぐるま