ブリュンヒルデの自己犠牲
『……だがもちろんこれは時を止める魔法でもないし、幻覚を見せる超能力の類でもない。ではなぜ君の視界から姿を消すことが出来たのか――? 火鷹、わたしの目を見るんだ――。わたしが今、何を見ているか分かるか――?』
俺は明日香の赤く光る瞳を見た。そうだ今の俺なら分かる――。明日香の瞳に映る俺の姿さえ鮮明に見える程だ。
『ああ、俺だ――。俺を見ている――』
『そうだ……。わたしは君の何を見ている……?』
『俺の右腕だ――』
『その通りだ……。通常の人間でも目の動きでわたしがどこを見ているかある程度判別することは可能だ。加えてドパージュで強化した目なら数十メートル離れた位置でも相手の視線の位置が精緻に判別出来るだろう。だがそれではまだ神眼の太刀には至らない――。火鷹、もっとわたしの目を見るのだ。今の君なら、わたしの目の虹彩の模様まで分かるはずだよ――』
『……ああ、確かに見える――』 こんなことに気にも留めなかったが、今の俺なら明日香の赤い瞳を成す毛細血管まではっきりと見ることが出来る――。だがこれがあの時間を止める能力と一体何の関係があると言うんだ――?
『火鷹、確かに物が精緻に見えるだけでは、姿を消す事も時を止めることは出来ない。だがあの時、わたしは見えていたのだよ。君がわたし以外のものを見ていたことがね――。単純にわたしは君が視線を外した時を狙い攻撃をしたに過ぎない。だから君はわたしが消えた様に見えたのだ――』
『何を言っているんだ、明日香? あの時は勝負の真っ最中だった! 俺がお前から目を離すなんてことはありえない!』
『覚えているかい、火鷹? あの時わたしが円を描く様に手を回していたことを――?』
『ああ、はっきりと覚えている! 俺はあの不思議な手の動きを確かに見ていた――』
そうだ! 俺はあの手を見ていた時に、攻撃を受けたんだ! 確かに隙と言えば隙と言えなくもない――。
『火鷹、人間の視界と言うものは実は相当に狭いものなのだよ――。試しに文字を読んで見れば分かる。通常の人間であれば一度に文字を識別できる範囲はせいぜい3センチ程度でしかない。つまり人間は意識を集中した時に、それ以外のものは朧げにしか見えなくなるのだ――。
もっともわたしも君も通常の人間に比べ視界はかなり広い。最初に姉さまと会った時、文字を読むテストをしたろう? 君は左右に開かれたノートの文字の違いを一瞬で見分けたじゃないか? 左右の目の独立性と視界の広さを示す証拠だよ――。
それでも視界の広さは数十センチに過ぎない――。わたしは君の意識がわたしの手に集中した時を狙い攻撃を仕掛けたのだよ。だから君は視界の外にあるわたしの身体の動きを捉えるのが遅れたのだ――」
『だが、それじゃおかしい! 俺だって格闘技の素人じゃない! 敵の身体全体を――
、そして敵の動きの全てを見るのが格闘技の基本だ! 敵の手の動きだけ集中して見るなんてことはしない! 仮にあっても、ほんの一瞬、0.数秒でしかない! 相手の視線の位置を把握するだけじゃ通用しないはずだ!』
『そうだな。確かに視線の向きを察知するだけではダメだ。人の視線は猫の様に気紛れに動くし、それに君の言う通り、人間は視界を広く取り相手の身体全体の動きを見る事も出来る――。しかし意識を集中させた時は別だ――。特に人が何かしらの行動をとろうとする時は必ず視線がそこに集中し、人間の動きと目の動きは完全に一致する!』
『意識を集中する――? そんなことがどうやって分かるんだ――?』
『火鷹、それには相手の目を見るのだ。だが目の表層だけを見るのではない。もっと目の奥底の眼球の中の網膜まで見るのだ』
『目の網膜……?』
『そう……。眼球の最深部の網膜こそが、我々が見る光景を微弱な電気信号、言いかえればデジタルデータに替え、脳に伝える役目を果す。君はその網膜に収束する光を見るべきなんだよ――。相手がカメラのレンズに相当する水晶体の厚さを調整し、その光が適正な範囲に収束した時に初めて人間は対象物を精緻に視認する出来る!』
『カメラのレンズ――? ピントを合わせるってことか?』
『そうだ。人間は眼球内の筋肉を動かし対象物との距離に合わせ水晶体の厚さを変え、網膜に届く光の焦点を収束させることで、やっと対象物を視認することが出来る。逆にその光が収束していなければ、朧げな状態でしか物を見ていないことになる。
円を描く手の動き自体に意味はない。ただほんの一瞬、君の意識をそこに向けてやれば良かったのだよ――。君がわたしの手に意識を集中し、目の奥の網膜に映る光が収束した瞬間、わたしの身体は君の視界から消える。わたしはその時を狙い、君に攻撃を仕掛けただけだ――。
別に魔法でも何でもないんだよ――。全ては視力の向上によりもたらされる必然的な結果に過ぎない――。
だが、これは全ての人間に、そして全ての攻撃に通じる技だ。敵が攻撃してくるタイミングと場所を教えてくれる。敵が相手を見ずして、攻撃を仕掛けて来ることはないからな――。
火鷹、この技はきっと君を助けてくれるだろう――。だがこれは神眼の秘密のほんの一つに過ぎない……。君がウォーカーで闘いに赴く時、この神眼の真の力を知ることになるだろう――』
俺は車から飛び出すと敵に向かって一直線に走りだした! 敵との距離は約八十メートル。遮蔽物も何もない! 拳銃やアサルトライフルの束を前に、真正面から突撃するなんて自殺行為に他ならない!
だが見える――! そう今の俺には全てが見えた! 敵の動きの一挙手一投足が! それだけじゃない! 敵の銃口の向きえも全てが精密に、そしてスローモーションの様に見える!
敵が銃を向けてきた! 反応が早い! 銃を構える動作も淀みがない! こいつらやっぱりプロだ! だがまだ拳銃で狙いを絞れる距離じゃない! 銃身の向きも、そして照準も合っていない! 行ける! 走れ――!
パーーン! パーーンッ! パーーン!
俺に向けて銃が連続して放たれた! 敵も牽制のつもりだろうが、そんなんでビビってられるかよ! 俺はそのまま真っ直ぐ敵に向かって走る!。
だがその直後、拳銃に遅れてもう一人の敵が銃を構えた! 来た、アサルトライフル! ロシア製AK―200!
このアサルトライフルだけはマズイ! フルオートで連射が可能なアサルトライフルの攻撃力は拳銃なんて比べ物にならない。 弾さえあれば一分間に数百発を撃つ事だって可能な銃だ。照準の合う合わないなど関係ない!
敵が銃口を俺に向け引き金に手をかけた瞬間、俺は横に跳び、路上の街路樹や植木の陰に隠れ地面に伏せた!
パパパーーッ! パパパーーッ! パパパーーッ!
耳を引き裂く様な銃撃の連続音がこの空と地面に響き渡る!
俺は地面に伏せながら思わず自分の身体を見まわした。痛みはない。怪我もない!
だがあの時、俺の脚が血に染められた時の恐怖が蘇る! 俺は身体全身に冷たい汗が流れるのを感じていた――。
パパパーーッ! パパパーーッ! パパパーーッ!
再びアサルトライフルが俺が隠れる植え込みに向けて放たれる!
作品名:ブリュンヒルデの自己犠牲 作家名:ツクイ



