ブリュンヒルデの自己犠牲
こんな成果が一向に見えない訓練ばかりしているためか、今ではウォーカーの歩行や走行訓練では、一馬や春菜に劣るまでになっている。元々ウォーカーは歩兵の代わりに開発されたものだ。幾ら複雑な操作が出来ても、ろくに走れもしないウォーカーが役に立つ訳が無い。
一度、千鶴さんにこのウォーカーの訓練は一体何か?と聞いたことがある。しかし千鶴さんはあの優しい笑顔で明確に回答を拒否するのだ。「その時が来たら話すわ――」と。
「その時って、一体いつなんですか?」
「火鷹くんの目に明確な変化が現れた時よ――」
「俺の目が変わる……? 明日香みたいに赤い目になるってことですか――?」
「……それは違うわ――。明日香のガーネットアイはただの結果的な事象であって、このドパージュの本当の目的ではないの。瞳が赤いこと自体は何も意味がないのよ――」
「じゃあ、一体――?」
「それは今は言えないわ。明日香の神眼の秘密に関わることだから。
でも、火鷹くん。あなたが神眼を開眼した時、明日香の強さの理由を、そして神眼の秘密を知ることになるわ――」
そうやって訓練を続けている内に、また例の頭痛が来た――。
このいつもの頭痛が訓練の終りの合図だ。
土曜日にドパージュを受けているのは、次の日の日曜日はこの頭痛を鎮めるために完全に休む必要があるからだ。全く、嫌な日曜日だった――。
* * *
コン、コン。コン、コン……。
日曜日の朝、俺の部屋のドアがノックされた。
だが俺は返事はしない。この頭痛のせいで俺の意識が半ば朦朧としているせいだ。昨日の訓練の後より大分痛みは和らいではいるが、それでもまだ痛みは残る。日頃の訓練の疲れもあるし、朝起きたばかりではとても返事をする気力もない。
そして返事はなくとも、「入るぞ、火鷹――」と言葉少なく静かに入って来るのは明日香と決まっている。訓練の後の日曜日は毎朝、明日香が俺の様子を見に来るのだ。勝手に部屋に入って来るのも、病人を放置させないためだ。
「火鷹、具合はどうだ――?」
「……いつもと同じだ……。頭が酷く痛い…………」
「そうか、今は無理に喋らなくて良い。まず点滴を打つ。ブドウ糖とビタミン等の各種栄養剤が入ってる。これを投与すれば少しは痛みは和らぐだろう。細かい症状はその後に聞く。今はゆっくり休め――」
そう言うと、明日香はケースからパックやチューブを取り出し点滴用の台をセットすると、俺の左腕に針を刺し点滴を打ち始めた。そして完全に薬剤を打ち終わるまで、いつも俺の側で静かに付き沿ってくれる。
「わたしもこの頭痛には大分不安にさせられたからな――」と明日香は言う。明日香もこのドパージュを受けて同じこの痛みと――、そして同じ不安を味わったらしい。
俺にとってはあの厳しいトレーニングよりも、この頭痛が何よりも辛いものだった。何しろ得体の知れぬドパージュを受け、身体に異常が生じるのだ。被験者の極めて少ないドパージュを受けることは人体実験に他ならない。それにその効能が大きい薬ほど、副作用のリスクも増大する。あの神眼を手にする程のドパージュだ。失敗すればどんな副作用が出るのか――? 考えただけで恐ろしくなる。
この痛みが出る時は、いつも自分が改造人間にされる馬鹿みたいな夢にうなされることが常だ。自分が醜い姿に作り替えられ――、自分の目が見えなくなり――、そして失敗作となった自分は捨てられることになる。そんな悪夢を見ることになる……。
明日香が単に治療や栄養剤の投与のためだけでなく、不安で苛まれている俺の付き沿いのために来てくれることが分かったのは暫くしてからだ。やはり同じ経験をしたから分かるのだろう。明日香の時は、千鶴さんが一緒に居てくれたと言う……。
「火鷹、具合はどうだ――?」
「ああ……、少し楽になった……」 流石にすぐにとはいかないが、点滴を打つと頭痛が大分和らぐ。
「頭痛以外に何か異常は感じるか?」
「よく分からねえよ……。頭も痛いし……、こう身体もだるくちゃなあ……」
「そうか、ではそのまま横になっていてくれ。眼底の検査をする」
そう言って明日香は指で俺のまぶたを開き、検視カメラで目の奥をじっと観察した。さらに慣れた手付きでシャッターを押し、パシャ、パシャと俺の左右の眼底の写真を撮る。
「火鷹、もう一度聞こう。目や目の周辺に痛みはないか?」
「ああ、なんとか大丈夫だ……」
「そうか。ならば心配は要らない。眼底の血管に異常は見られない。念の為に姉さまに検査を頼んでおくがな」
「本当かよ……? こんなに頭が痛えんだ……。しかも薬を打つ度いつもこれだ……。平気な訳ねえじゃん……」
「火鷹……、このドパージュを開発したのは母さまと姉さまだ。少しは信用して欲しいものだな――」
「……千鶴さんの頼みでなきゃ、こんなドパージュとっくに止めていたよ……」
「――おまえの不安な気持ちは分かるが、その頭痛はドパージュの副作用や病気の類ではない。むしろドパージュの効果により視神経類が順調に発達している証と言えるだろう――。わたしが薬を投与している場所は、眼球の動きを司る筋肉類と網膜につながる神経節の近くだ。異常があれば、脳よりもまずその目や眼球付近に痛みや出血があるはず――。その頭痛は脳の正常な反応、敢えて喩えるなら、知恵熱と呼ばれる類のものだ」
「……知恵熱……? これがかよ……?」
「慣れぬ勉強などや複雑な計算をすると頭が痛くなることがあるだろう? 脳に高い負荷を懸ける事で、軽い発熱や頭痛が生じる。脳の疲労の様なものだ。ドパージュにより視神経や眼球の動きが向上することで、脳に伝達される視覚情報が増大し、それに伴い脳神経に従来以上の負荷が懸かる。この様な負荷を繰り返すことで視神経とそれに繋がる脳細胞、シナプス類を発達、再構成させるのだ」
……そんな明日香の話も頭痛で意識が朦朧としているせいか、ほとんど理解出来なかった。それに明日香の静かな語り口もあって、夢を見ている様な感覚に陥ってしまう。子供の頃にもこんなことがあったな……。何かの本を読んで貰ってる内に眠くなっちまうんだっけ……。
「火鷹……、また少し眠ると良い。脳の負荷と再構成には大量のエネルギーを必要とする。先程打った栄養剤で回復は早まるはずだ。今はゆっくり休め――」
明日香のそんな話を聞きながらが、俺は再び眠り始めた。もちろん、明日香が何を言ったかは覚えていない――。
そうやって土曜日の訓練の後は、明日香は俺に不安を和らげる様な話をしてくれるのが常だった。まるで千夜一夜物語みたいだ……。確か王様が毎晩美少女にお伽話を聞かせてもらうんだよなあ……。俺の場合は頭痛の治療ためだが、相手が明日香なら多少の病気も悪くないと思った程だ。
それに明日香も時には部屋を片付けたり、洗濯や食事の世話などもしてくれる。この時ばかりは流石に明日香も女の子だとつくづく思う。まあそのお陰で部屋に変なモノは置けなくなってしまった訳だが……。
「ふっ……、火鷹、断っておくが妙な勘違いはして欲しくいないものだな――。頭痛で動けないだろうから面倒を見ているだけだ。投薬だけして捨てておく訳にはいかないからな――」
作品名:ブリュンヒルデの自己犠牲 作家名:ツクイ