憎きアショーカ王
(13) パンジャブ平原--[ペルシア/ウルドゥー]Panjab [パンジャブ]Punjab. パキスタン、インド両国のそれぞれのパンジャブ州一帯。パンジャブとは"五つの水"の意で、インダス川と四つの支流(ジェーラム、チナーブ、ラーヴィー、サトレジ。ビアスを加えてインダスと五つの支流を指すとも)を指す。これらの河川が流れるパンジャブ平原は、インダス文明の昔から今日まで豊かな農作地である。
(14) 国境--今日、パキスタン-インドの国境を両国人以外の者が陸路で越えることができるのは、ここで彼が通ったルート(ラホール-アムリトサル間)のみであるようだ。しかし両国間で何がしかの事件があるたびに、この国境門もしばしば封鎖される。
(15) アレクサンドロス--[ギリシア]Aleksandros(紀元前356頃-323頃). アレクサンドロス三世。大王。マケドニア王、コリント同盟盟主、エジプト王(ファラオ)、ペルシア王(シャーハンシャー)。二十歳でマケドニア王に即位すると、父フィリッポス二世から受け継いだマケドニアの密集重装歩兵ファランクスを率いて小アジア、エジプト、ペルシアをたちまち征服した。紀元前326年、ヒンドゥークシュ山脈を越えてパンジャブ地方(13参照)に侵入し、パウラヴァ族([サンスクリット]Paurava)などと戦った。アレクサンドロス自身が投石を受けて負傷するなど、苦しみながらも連戦連勝するが、ビアス川畔(16参照)において兵士達の反抗が起こり、インダス川を南下して紀元前323年にバビロンに帰還した。直後に三十三歳にして急死し、「最も強い者が私を継げ」という遺言に従ってディアドコイ戦争(19参照)が始まったという。
(16) ビアス川--[ヒンディ]Beas [ギリシア]Hyphasis. インダス川支流の一。マナリの北約50キロのピルパンジャル山脈ロータン峠付近に発し、ヒマチャル・プラデッシュ州(15参照)の山々に深い渓谷を刻んでパンジャブ平原に至り、パンジャブ州アムリトサルの南でサトレジ川と合流する。水量の多さと急流で知られる。アリアノスの『アレクサンドロス東征記』ではヒュファシス川と書かれ、マケドニアの兵士たちが渡河を拒否したこと、アレクサンドロスが兵たちを説得するも叶わず軍を返したことが記されている。
(17) ヒマチャル・プラデッシュ--[ヒンディ]Himachal Pradesh. インド共和国の州の一。州都シムラー。人口約六百万人、面積55.67.km2。北はカシミールと、東はチベットと接する山間の地。"万年雪の地"の意で、マナリ北のピルパンジャル山脈はその名の通り一年中雪に覆われている。今日に至っても交通が困難であり、静かで景観豊かな谷間の村々が点在する。ヒマーチャル・プラデーシュとも。
(18) チャンドラグプタ--[サンスクリット]Chandragupta [ギリシア]Sandrokottos. 在位:紀元前317頃-298頃。マガダ国マウリヤ朝の初代の王。前半生ははっきりしないが、ナンダ朝の没落した王族の出自であり、タクシャシラーで挙兵しパータリプトラを占領、ナンダ朝を滅ぼしてマガダの王統を継いだという。紀元前305年頃、バビロニア王となったばかりのセレウコス一世(19参照)がパンジャブ平原に侵入すると大軍を派遣し、彼と和睦してインダス川下流域一帯を獲得した。両軍の戦闘の経過は伝わっていないが、チャンドラグプタは領土の割譲を受けているから、マガダ軍が勝利したのかもしれない。ガンジス、インダス両大河の全域、デカン高原北部を支配し、インド有史最大の大国を打ち立てた。ジャイナ教に帰依していたという。プルタルコスはチャンドラグプタがアレクサンドロスとタクシャシラーで会見した逸話を伝えているが、史実であるかわからない。
(19) セレウコス--[ギリシア]Seleukos. セレウコス一世ニカトール。紀元前358-281。セレウコス朝の創始者。バビロニア王、後にシリア王。アレクサンドロスのディアドコイ([ギリシア]Diadokhoi. "後継者"の意)のひとり。マケドニア貴族の出身で、アレクサンドロスの親衛隊長だった。紀元前321年、トリパラディソス会議によってバビロニアの太守となり、以降ディアドコイ戦争を戦うことになる。紀元前301年、マガダのチャンドラグプタと和睦して得た戦象を用いて、ディアドコイのうち最も有力だったアンティゴノスをイプソス会戦において破り、シリアを獲得してアンティオキアに遷都した。紀元前281年にはマケドニア王となっていたディアドコイのひとり、リュシマコスもコルペディオンに破って、マケドニアとギリシア、プトレイマイオスのエジプトを除いたアレクサンドロスの遺領をほぼ制圧し、ニカトール(勝利者)と呼ばれたが、故国マケドニアへの遠征の途中、プトレイマイオスの息子のプトレイマイオス・ケラウノスに暗殺された。
(20) ビンドゥサーラ--[サンスクリット]Bindusara [ギリシア]Amitrochates. 在位:紀元前293頃-268頃。マウリヤ朝第二代の王。チャンドラグプタの子。アショーカ王の父。父の死後各地で起こった反乱を鎮圧してマガダの版図を維持したという。セレウコス朝やプトレイマイオス朝との外交記録が伝わる。アージーヴィカ教に帰依していたという(アージーヴィカ教は決定論を説いて努力を否定し、仏教徒やジャイナ教徒と敵対していたといい、遅くとも13世紀には消滅した)。息子のアショーカとは不和であったといい、彼に軍勢を与えずにタクシャシラーの反乱の鎮圧を命じたが、アショーカは神々から軍勢を与えられ、タクシャシラーの人々は戦わずして服したという神話がある。
(21) カリンガ--[オリヤー]Kalinga. インド亜大陸中東部、ほぼ今日のオリッサ州にあった国。叙事詩マハーバーラタにも登場する古い国であり、ドラヴィダ民族であったらしい。マガダがナンダ朝であった頃には服属していたが、マウリヤ朝が取って代わると、チャンドラグプタと戦って勝利し独立したという。紀元前265年頃アショーカ王に攻められて征服された。このカリンガ戦争についての碑文は今日六個見つかっている摩崖法勅第十三章であり、「十五万の人々が移送された」(奴隷となったことを指す)こと、「十万の人々が殺され」たこと、アショーカ王がこれを悔いたことなどが刻されている。メガステネスの『インド誌』([ギリシア]Ta Indika)にはカリンガではジャイナ教が盛んであると記されている。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu